僕らの時代の地デジとアナログ

藤幡正樹
お久しぶりです、5年ぶりぐらいになりますね。今日はよろしくお願いします。ま、細野さんは最近は何に関心があるのかということで、身近なところから話を始めたいと思います。去年か一昨年頃から突然「地デジ」が出てきました。アナログ放送が終わるということがまずショックでしたし、「地デジ」というギザギザしたことばの触感も好きになれない。そうしたことをきっかけにして、去年はしばらく「テレビ放送とは何だったのだろうか」ということを考えていました。僕は細野さんより10歳くらい年下で、僕の場合小学校2年生頃からですが、当然テレビを意識してました。その頃、同時に近所にスーパーマーケットができて、親といっしょに行くと明るい蛍光灯の下に商品が豊富に並んでいて、「これがアメリカなんだ」と思いましたし、またスーパーから帰る途中なんかは、夕方の暗さのなかで家々の窓がテレビの色に光っている風景がありました。「地デジ」の出現によって、こういうスーパーやテレビと夕方といった情景、なんというか、テレビを含めた人間の生活の情景がある意味で終わっちゃうんだなということを感じたんです。今では映像はテレビだけではないし、家の各部屋にいろんなモニターがあって、さらに録画技術も進んだから、皆がそろって同じ映像を見るということがすごく減っていますね。さらに言えば、全国の人が一緒に同じテレビ番組を見るような状況がほとんどなくなりました。このように、「地デジ」が出てくるまでの環境の変化は、メディアの問題だけではなく、経済成長や家族構成といった日本の社会状況と全部リンクしていたように思います。まず、細野さんにとってのテレビ体験はどういうものだったのですか?

細野晴臣
テレビは素晴らしかったね(笑)。小学校の3、4年の頃にテレビについて作文を書いたくらいで、それくらいカルチャー・ショックを受けた。とにかく、テレビは各家庭にあるものではなくて、お金持ちの家にあるものだったでしょ。

藤幡
うちもテレビを買ったのがわりと早いほうだったから、近所の人が毎日観に来てました。そのたびにお茶とか出さないといけなくなった(笑)。

細野
でもそれが楽しかったんだ。いつも知らない人たちが集まって、和気あいあいとプロレスを見ていた。僕はテレビを近所の家に観に行った側だったけど。

藤幡
そんなことを考えていた結果、昨年《電気椅子、あるいはTV》(2009)という作品を作ったんです。技術的には、蛍光灯一灯一灯の明るさをコンピュータでコントロールして、全体で低解像度のテレビを作ったわけです。つまり、蛍光灯一本が1ピクセルに変換されているわけです。僕にとってテレビはアナログなメディアですから、その時代を象徴する昭和30年代のテレビ番組をYouTubeから取ってきて編集しました。先ほど話したように、アメリカからモダンがやって来るという感じ、そしてテレビとイメージについて自分なりにもう一度確認してみたくてこの作品を作ったのです。

細野
当時、テレビの存在はまさに最先端そのものだったはずだけれど、今はもうノスタルジックなものにしか思えない。まるで夢を見ていたようだよ。そうだなあ、例えばヤシマのボンボンのコマーシャルなんかは全部覚えている。黒猫がピアノの上を歩いていたりして、もちろんモノクロでね。ナレーションもなく音楽だけだった。レス・ポールの「キャラバン」(笑)。なんか怖くて、悪夢のようなコマーシャルだったけれど、今ではとても惹かれるものがある。
細野晴臣
藤幡
展示で用いた映像は、「ゲバゲバ90分」「シャボン玉ホリデー」「銀座の青春」、「ワタナベのジュースの素」や「ハトヤ」のコマーシャルなどなどですが、それらをアップテンポに編集しちゃたんですが、なんか面白いんですよ。すでに、いくつかの場所から反響があって展示になりそうです。とはいえ、自分で面白いと思っていることが、まだ上手く言葉にできていない。とりあえず人前では「家のような形や椅子という家具が、当時の家族の団欒とテレビについての記憶を再生する」とか言っているわけですが、実際のところデジタルの技術で、その頃の記憶みたいなものを扱いなおそうとしているのですが、ただそれらはノスタルジーからきているのではないのです。ノスタルジーとしてではなく、自分が小学校の頃に受けた確実な影響を確認しているんですよ、たぶん。だからそれを上手く言葉にできないのは当然なんです。僕と細野さんとではジェネレーションの違いもあるかもしれないけれども、細野さんがずっとやっていらっしゃることも実は10代の頃に受けた影響がかなり強いのではないでしょうか?

細野
今はますます強いね。そこからは逃れられないという気持ちが強い。特に、戦後に生まれてアメリカ文化に洗礼を受けたから、何をしても結局はそこにぶち当たってしまう。そのことを今はかなり突っ込んで知りたくなってきているんです。

藤幡
僕は去年この展示をするまで、そんなことを考えたことはなかったけれども、同じことを強く感じました。

細野
僕も考えたことはなかったよ。例えば、去年BSでBBCが「ソウル・ディープ」というリズム&ブルースの歴史を全6話シリーズでやっていた。つい10年くらい前だったら、ただ楽しんで見ていただけだったと思うんだ。そして今も、レイ・チャールズがナット・キング・コールからどのような影響を受けたかという、ディテールに関する面白さは感じるんだよ。番組で流れるどの音楽も知っているし、自分は全部に影響されている。こういうすべてのことによってファンク・ベースを極めたような気持ちもある(笑)。ところが一方で、ここで見ているものは全然自分には関係がないということにも気づいた。僕は黒人ではないし、公民権運動も知らないし、生きている文化が全然違う。ただ単に音楽を聴いてきて影響をされただけであって、こちらから影響を返したわけではないから、相互作用ではなかった。だから最近は、いろんなことが自分には関係ないんだと思うようになった。自分に関係があるのは、戦後進駐軍がやって来て、ロカビリーが流行ったという、そのあたりの文化の洗礼を受けたということだけ。だから今は、その頃のカルチャーや映画を通じて触れてきたいろいろな音楽をカヴァーしていこうとしているの。とにかく今は自分とは関係がないという気持ちが強くなっているんだけれど、その感覚がどういうものなのか、自分自身きちんと理解できていない。

藤幡
日本の戦後文化の根本的な問題ですよね。
藤幡正樹
細野
これは問題なんだよ。突き詰めて言えば、それは今の芸能界のルーツでもあって、ナベプロやホリプロといった今も力のあるプロダクションは、この頃からテレビのパワーを使って拡大していったわけ。でもね、日本が戦争に負けたからこうなったと思う。もし勝っていたら、伝統音楽がポップス化していたり、ひょっとしたら今頃は文化がアラブ寄りになっていた、なんてことがあったかもしれない。

藤幡
「かもしれない」ということと関係があると思いますが、そういえば細野さんは一時期「こぶし」を習ったり、あるいは沖縄にはまっていましたよね。

細野
その頃はこぶしが音楽の質を変えると信じてやっていたの。ところがいつもそうだけれど、潮流っていうのは、物事を薄っぺらにしていくだけだった。音楽にとっては本質的な変化ではなく単なる流行、こぶしがただ利用されただけで、まったく面白い現象ではなかったのでやめてしまったの。特に民謡について言うと、例えば『omni Sight Seeing』(1989)というアルバムで「江差追分」という古い民謡を扱ったのね。自分では歌えないから北海道の女の子を連れてきて歌ってもらって、そこに僕がコードをつけたの。ちょうど世の中がワールド・ミュージックと言っていた頃だった。でも、僕はその江差追分にコードをつけたことを反省しているんです。コードをつけることで、コードなしでは聴けなくなるというか、戻れなくなってしまう。だから本当はそのままで置いておくべきだった。「江差追分」を素材としてしか扱えなかったという反省があるんです。

藤幡
「江差追分」にきわめて西洋的なロジックを持ち込んだと言うことでしょうか。僕らが聴き慣れていない本物はどこから聴いてもわかりにくく、結局、細野さんの解釈を通して聴くことになりますからね。

細野
僕がわかりやすくしてしまった。

藤幡
僕らはわかりやすくなったものを聴いて、あらためて面白がっているというかたちだったと思います。

細野
それはひとつの試みとしてはよいけれど、このような方法があったのかと皆が真似しだすと一気に薄っぺらなものになる。何でもそうだけど。