■〈顔〉の崩壊

大橋
本日は多くの方に来ていただきありがとうございます。私は映像に関してはどちらかと言えば素人ですので、皆様を満足させるお話ができるか自信がありませんが、なんとなく見ていただき、では何が考えられるのか、ということを考えていければいいと思っています。「〈顔〉の崩壊」というテーマで進めていきます。参照するのは、 バズビー・バークリーが振りつけた演舞《Dance until the Dawn》(1931)のシーン[fig.10]、次にマルクス兄弟《我輩はカモである》(1933)のひとつのシーン[fig.11]を流しますのでご覧ください。





最初のバークリー《Dance until the Dawn》をご覧いただいてお気づきかと思いますが、人間の身体を幾何学的に構成するというよりは、特有のリズムを伴った複数の有機的なユニットとして組み合わせた振り付けが彼の特徴的な発想とされています。マスゲーム的集団運動のなかで、人体が固有性を失うことにより、個は群れを構成するひとつの要素になる。そしてその群れの一員になるときにある種の快楽があるのではないのか。この快には良い面も悪い面もあるわけです。当然集団的経験を前に、寒気や吐き気を覚えるということは、そうした快楽の裏返しにある怖い効果を感じ取るということにほかなりません。それと同じレベルで、顔が最後のシーンで輪として映ったとき、個々の顔の表情が消えていくように見えます。問題となるのは、一人ひとりの顔は一人ひとりの思考の結果ではないのではないかということです。ここにはあたかも万華鏡のパターンのように織り込まれた顔がある。このことをどのように考えることができるのか。 大橋完太郎プレゼンテーション〈顔〉の崩壊
人間一人ひとりの身体、一人ひとりの顔は異なっています。それをある種断片化する視線、分節化する視線によって再同期させ、再編成し、顔や身体を、いわば並列的に同期させることによって、「〈顔〉の崩壊」が起きるのではないか。「〈顔〉の崩壊」において、顔が何か感情を表出している(expression)という前提、そして、顔が辛さ、悲しさ、険しさといったもの、つまり意味を持っている(signification)という前提が、消えてくるのです。いうなれば、顔から表情、表出、意味といったものが差し引かれ、抽象的な顔になるということです。われわれの日常を支える、眼と眼の正対によるある種の信用は、崩されるのです。抽象化とはこの契機であり、そこにおいて個別性の標識であった顔を、ある種のパターンのなかに埋め込まれていきます。パターン化され、パターンとしての振幅のなかに収められた顔には、個性もなければ単一性もありません。こうした映像を観る私たちは戸惑いを覚えます。それは、多くの顔に対面しているけれども、なにひとつ「Face to Face」ではないからです。なにゆえの戸惑いでしょう。答えはさきほど示しました。つまりそれは、もはや顔ではない、「崩壊した〈顔〉」だからなのです。
さて、次にマルクス兄弟《我輩はカモである》を鏡像的なものと考えてみます。登場する2人はギリギリで対面していますが、それは鏡像関係のふりをした「Face to Face」です。その結果、鏡像関係が今もなおあるかのように振る舞われる2つの同時並行的な動作が主題になります。この2人のモノマネを成立させているものが何であるかと言うと、映像の冒頭にあった鏡の破壊という事実です。鏡の破壊が意味するものは何であるのか。それは「反射」「反省」の契機がないということです。「反射」「反省」とは、デカルトのコギト(我思う、ゆえに我あり、cogito ergo sum)に代表されるような、私がいま現在、確かに私自身を見、私自身を考えているという構造の下に思考が行なわれることを意味します。しかし、どうやらマルクス兄弟の場合はそうではない。なんだか鏡の前にいるオリジナルのほうも、どうもこいつが鏡像であるかは疑わしい、と感じていることが見て取れます。本来、いや多くの場合疑いなく、「私が私を見る」ための視線が、「私が私ではない他者を見ている」のか、あるいは逆に「他者ではない私自身を見ている」のか、そのどちらかを証明するための視線になってくるわけです。このときの視線は、自己反省的なものとは少し異なるものになるのではないでしょうか。私が見ている顔が私であるかもしれないし、私でないかもしれない。そのとき、多くの人は鏡を見て私が私の鏡像であり、私の鏡像が私であることを確認しようとします。
ところが、さきほどのマルクス兄弟の例から考えるなら、「この私」が「私」であることを教えるものは、「私の顔」ではなかったということになるのです。ではなにか。それは、鏡の外へふっと消えていくときにフレームの外にかかっている布の切れ端であるとか、パジャマの裾であるとか、あるいは偶然手に捉えた帽子、帽子が偶然落ちてそれを拾い上げるといった、ある種のアクシデントによってしか、私の鏡像が私である、あるいは私ではないということが露呈されえないということなのです。そして、鏡を見る人物に対しては、ほとんど最後まで、これらの手がかりが見えないままにあるということにも注意したほうがいいのかもしれません。ジャック・デリダ的な言い方をすれば、「反射」「反省」などの自己性の秘密は私には不可視(invisible)なものだ、ということになるでしょう。自分の顔が自分の顔であるという反射的な保証は結局のところいささかもないわけです。そうして、また《我輩はカモである》から進めてデカルト的な構造に再びなぞらえるならば、鏡像のフリをしていた奥の部屋の人物は、いわば「全能の欺き手」です。相手に私が私であることを確信させるのだけれども、本当に私が私であることを保証してくれるかどうかはよくわからないという存在。さて、ここで私がダマされないようにするために、デカルトが採った解決は、目をつぶって独我論に浸ることでした。私が目をつぶって思考している間、心の目に疑いえず浮かんできた明晰判明な最初の観念、これがすなわち「私」であった。デカルトの独我論的な解決です。ところが、先ほどの映像で考えると、そうした解決だけでは解消しえないものがあるのではないか。というのも、「私」が「私」であることを保証したり、あるいはほころびさせたりするのは、さきほどパジャマの裾が引っ掛かる瞬間、あるいはアクシデントと言いましたが、物質的なものが介在してくる瞬間を待つ、あるいはそれを目にすることでしかないように思えるのです。同様に、自分自身との「Face to Face」という、ひょっとしたら偽かもしれない鏡像関係は、何か第三者の侵入によって、つねにその疑わしさが露呈する瞬間を待っているのではないでしょうか。いずれの場合においても、顔という要素は結局のところ自分自身のアイデンティティを告げ知らせるものではいささかもないということです。顔以外を見ることによってのみ、この顔が偽物であるということがわかるのです。
さて、「〈顔〉の崩壊」という視点から2つの状況をざっくりまとめると、前者のバズビー・バークリーは範列的=パラディグマティック(paradigmatic)な仕方で顔を崩壊させると言えます。また、後者のマルクス兄弟は、統辞的=サンタグマティック(syntagmatique)な仕方で顔を崩壊させるといえるのではないでしょうか。簡単に言いますと、両者はともに様態的な差こそありますが、「反射」「反省」のない同時性というレベルで顔の個別性を崩壊させてしまうというわけです。そこにはいささか「反射」「反省」、自分を自分たらしめる何物もないまま、ある種のシンクロニシティが機能することによって、顔の個別性は失われていくというわけです。これが「〈顔〉の崩壊」というモーメントではないかと考えています(蛇足ですが、この2つの映像作品が1930年代初頭、つまり1929年の大不況以降のアメリカにおいて生まれてきたということも、なにか示唆的な関係にあると私は感じています)。それでは最後に、少し哲学的な議論をひきつつ締めくくろうと思います。 大橋完太郎プレゼンテーション〈顔〉の崩壊
「顔」は本来、ある種の現象学において、倫理の中心となるものでした。たとえば、エマニュエル・レヴィナスの倫理学においては、人に人を殺すことを止めさせるのは、他者の顔であったとされています。人がまさに人を殺そうとするときに、他者の顔が「殺すなかれ」と命じる。ところが、先ほど言った、対面であるとか顔の同一性であるとかいったことを失調させてしまう「〈顔〉の崩壊」という事実が立ち現われると、こうした対面に基づく倫理がなかったことになってしまいます。そうなると、「殺すなかれ」という顔がないならば殺してもいいのか、という問いが出てくる。これはまさに、現代的なメディア環境の問いにつながってくるのではないかと思います。
ここでもうひとりの顔を志向した哲学者を呼び出すと、また違う側面が見えてくるのではないかと思います。ジル・ドゥルーズ=フェリックス・ガタリ、いわゆるドゥルーズ=ガタリを、「〈顔〉の崩壊」をリハビリしようとした哲学として読めるのではないでしょうか。ドゥルーズ=ガタリの『千のプラトー』(Mille plateaux, capitalisme et schizophrenie, 1980)の第7章「零年──顔貌性」は〈顔〉に捧げられた一章です。顔のさまざまな要素についてのかなり複雑な議論がありますが、端的に紹介しますと、顔というのはひとつの抽象であるとドゥルーズは述べます。そして、顔という抽象が生起してきた結果、顔と風景という2分法が生まれたのだと述べています。人は、顔か風景かをしか見分けない。そしてドゥルーズはこれが権力装置だと言うわけです。ドゥルーズはここに新しい線を引こうと提唱する。顔貌性、顔の表われ、そもそも顔が表われてくること自体、ある権力のアレンジメントの結果なのだと述べます。それは、ドゥルーズ=ガタリ的な分析でいうならば、顔を一元的に記号化することです。それは身体からフェイスを引き離して、記号に変えてしまうことであり、身体が持っていた身体性・動物的なモーメントはなくしてしまうことなのです。同書で、「多義的または多次元的記号系の作動が不可欠な身体、そして、身体的座標は入念に除去される。身体は調教され、身体性は告発され、〈動物〉になることは排除され(後略)」とあります。顔と風景の2分法、近代の中期程にできたこの2分法が、こうしたひとつの身体の抑圧の経験も含んでいるのだということになるわけです。では、最終的にドゥルーズ=ガタリが行なった解決はどういうことであるのか。顔貌性から脱出する、これからどうしたらいいのかというのが、まず、ドゥルーズ=ガタリが提示していて僕が分けたのは逆行的方法です。すなわち、ある種の抽象、関係の結果、顔といったものができてきました。顔と風景といった2分法が提示されたとするならば、顔を一度頭に差し戻す、顔に体、身体性を与え返すことで、多義的身体といったものをリロードしていくことができるのではないかということがひとつです。そして、おそらくバズビー・バークレーの映像は、この点においてある種成功しているような気もします。そこでは顔、フェイスとはヘッドの一部かボディの一部かといった観点しか想起させない。そして、もうひとつ顔と対になっている風景という装置は、逆に環境へと差し戻すことができるのはないかということです。これは、ある種このシンポジウムの大きなヴィジョンになっているのではないかと思います。顔と対になる風景という、ある種のカッコつきの歴史的な意味の地層ともう一度差し戻すことこそ、表象の概念の外部に出ることです。これはおそらく、いままで述べてきた生態というものにつながるのではないかと思います。プラトン、カント的な図式の外に出ることであり、もの自体に触れることでもあるようなやり方になるわけです。ただし僕は、ドゥルーズが指摘したこのやり方は、別れてしまったあとのものを結び直すという、ある種の逆行的な革新に基づいていると考えています。ルソーは「自然に還れ」と言いましたが、自然に還れるかどうかわからない。でも還れと言わないと仕方がない、そういうパフォーマンスを伴うこともあります。では、第3の方向として加速化していく顔の方向、顔の喪失をどのように考えるべきかということに関して、はっきり言うと私は少し困ってしまっています。スクリーンを増やせばいいのかといえば、きっとそうではない、リアルにすればいいかというと、それでもまだ足りない。今日はこのあたりで終わろうかと思いますが、今回皆さんの議論を受けて、このような狙いについて思考できればと思っています。どうもありがとうございました。

柳澤
「反射」「反省」の閉鎖性からどうやって外に出ていくか、これまでの議論が非常にうまい具合につながっていると思います。立て続けにお話を聞いていただくかたちになりますが、次に榑沼さん、お願いいたします。

平倉プレゼンテーション
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榑沼プレゼンテーション