■超個体と自己記述

『ダランベールの夢』の最初のほうで、群れをなす「ミツバチ」の事例がダランベールの寝言として語られます。

「レスピナッス嬢──このような前口上がすむと、あのかた[ダランベール]は叫び始められました。《レスピナッスさん! レスピナッスさん!》──《何か御用ですか?》──《蜜蜂の一群が巣からぬけ出すのをときどきお見かけになりましたか?……世界、すなわち物質の総質量は大きな蜂の巣みたいなものですよ。……この蜜蜂が木の枝の先に飛んでゆき足でみんなしがみつきあって、羽をもった小さな動物の長い房みたいになるのを見たことがおありですか?……この房は一つの存在、一つの個体、何らか一つの動物なんです。[……]ところで、こうした房を見たことがおありですか?》──《はい、見ましたわ。》──《ごらんになったんですね?》--《はい、あなた、見たと申し上げているんですよ。》──《そうした蜜蜂の一匹が、自分のしがみついている隣の蜂をどうにかして抓って見ようという気になったら、どういうことになると思います? おっしゃってごらんなさい。》──《ちっとも分りません。》──《いいから、いってごらんなさい……じゃあご存じないんですね。でも哲学者先生はちゃんと知っているんですよ。[……]その蜂が次の蜂を刺すようにすれば、蜂の房全体に小さな動物と同じだけの感覚が生じるでしょう。すべては、ゆり動き、位置と形を変えるでしょう。ざわめきと無数の小さな叫びが起るでしょう。そして、こうした房がまとまって出来上ったのを一度も見たことのなかった人は、その房を五、六百の頭と千ないし千二百の羽をもった一匹の動物と取り違えたくなるでしょう……》 どうです? 先生。」(同、36-37頁)

無数のミツバチが寄り集まって、いわばひとつの「超個体」を形成する。ディドロの目論見は、ひとつの動物個体、例えばヒト個体もまた同じように、より高い分析的「解像度」で観察されれば、無数の「群れ」をなす生物の集合からなる「超個体」として考えられることを示すことです。さらにダランベール=ディドロは、「群れ」の組み替えによって、個体を「変容」する可能性にまで思考をすすめます。「群れ」のいくつかを取り除いたり付け足したりすることで、ひとつの動物の形態が、別の「怪物」的形態へと変容していく。ひとつの「個体」とは、つねにそのような変容可能性を潜在させた「群れ」である。そういった考えです。
実際、ある種のミツバチのなかには、ディドロが考えていたような鮮烈な「群れ」の「個体性」を表現するものがあります。オオミツバチの例を見てみましょう。[fig.11]


[fig.11]オオミツバチの波状の威嚇パターン(YouTubeより)

驚異的な映像です。スズメバチのダミーに対して、無数のオオミツバチからなるコロニーが、全体として、鮮烈な波状の威嚇パターンで応答する。オオミツバチのコロニーは、まさにひとつの「超個体」として、スズメバチに対してコミュニケーションを行なっているようです。
もちろん一匹一匹の個体がやっていることは、隣接する個体の仕草を反対側の個体に伝えることでしかない。ちょうど競技場で人間が「ウェーブ」を作るときにそうしているように。しかしそれらが集合したとき、「超個体」が現われる。その「超個体」は、全体として、スズメバチが接近したという「知識」を表現しているようである。
しかし、いったいこの「超個体」は、どこにいるのでしょうか? 「超個体」は自らの知識を、どこに表現しているのでしょうか? もちろん、物理的には木の上、しかしパターンの現象としては観察者の知覚のなかです。そして個体の個体性と、個体の知識とは、観察されるパターンとしてしか存在しない。オオミツバチのコロニーは、スズメバチの知覚、あるいはスズメバチとオオミツバチの群れを同時に観察する観察者の知覚のなかで、みずからの思考と個体性を表現している。観察者がなければ、「超個体」の個体性などけっして存在しえない。
このことは同時に、人間である私が、なぜ私自身を「群れ」として経験することができないかを裏側から教えます。なぜ私は私自身を「群れ」として意識できないのか。なぜなら「私」とは、絶えざる再帰的「自己観察」のシステムのことだからです。自己観察によって、私を構成する「群れ」は、「私」というひとつの形態へと縮減的に産出される。私を構成する無数の「群れ」は、自己観察というもっとも粗雑な解像度の観察システムで観察されることよって、ひとつの「私」という輪郭へとたえず産出される。「私」とは、つねに「私」を「私」として自己記述することで「私」を産出するシステムのことにほかなりません。しかしそれがたんなる自己記述であるかぎりにおいて、実際の物理的自己からずれうる、あるいは変更しうるということは、周知の通りです。例えば、自分の片手と同期して刺激されたダミーハンドが自分の身体の一部として感じられるという、ヴィラヤヌル・S・ラマチャンドランの有名な実験のことを考えてみればいいでしょう。[fig.12]


[fig.12]ヴィラヤヌル・S・ラマチャンドランによる幻肢と脳の関係の解説(YouTubeより)

■蜘蛛の子を散らす

この「群れ」と「(自己)記述」という問題を通して、もういちどエイゼンシュテインに戻りましょう。エイゼンシュテインの《十月》(1928)は冒頭近くで、機銃掃射を受けて、まるで初夏の「蜘蛛の子を散らすように」散らばっていくデモ隊の姿を映すところから始まります[fig.13]。
《十月》の革命は、このばらばらな蜘蛛の子の群れが、「われわれ」という団結した「歴史の主体」へと、強く「超個体」的に生成することに賭けられています。言い換えれば、「群れ」のプロセスが、通常の「私」を超えて、「われわれ」という大きな「私」の自己意識を自己記述し始める可能性に向けられています。映画は、その革命的「われわれ」の生成へと、観客たちを「立体」的に巻き込んでいくように構成されている。しかし、「われわれ」の暴力的産出プロセス、すなわち革命は、「われわれ」には成りえないような、つまり「われわれ」とは一致しえないような諸々の存在が、「歴史の掃き溜め」へと送られていくプロセスと同時です。そして「われわれ」は、いったん「われわれ」として生成したら、「われわれ」ではないようなものをたえず「抹殺」し、「掃き溜め」へと送り続けていくことによってしか自己の形態を維持することができません。
しかし《十月》には、必ずしも抹殺的ではないような「群れ」の生成も描かれているように思います。冬宮の襲撃シーン、男性兵士たちが、皇后アレクサンドラの寝室に侵入するシーンです[fig.14]。
ひとりの男が銃剣をベッドに突き立て、切り裂く。物陰に隠れた皇帝側の女性兵士たちがびくっと震える。突き刺したまま男が見回すと、正教のイコン群に紛れて、下半身裸で祈る女性像、男性器状の陶器、女性器状の陶器、そして皇帝・皇后・皇太子がキリストに祝福されている絵が目に入る。男は唾を吐き、切り裂かれたベッドを床に叩きつける。寝室の奥に向かって羽毛の嵐が吹き荒れる……。生殖的なコノテーションは明白です。切り裂かれた皇后のベッド、つまり女性の身体から、無数の白い羽毛が「出産」される。しかしそこで産み出された羽毛の無目的な散逸は、けっして革命の目的的運動へと完全に結合してはいない、と言うこともできると思います。たしかに羽毛のショットは、すぐさま、冬宮になだれ打つ兵士たちの映像に接続している。にもかかわらず、ただランダムに散り散りに吹き荒れる羽毛の動きは、なだれ打つ革命の目的的動きに必ずしも接続しない。そのように見てみたいと思います。そのとき、映画の観客は、自らの知覚の振動のなかで、このランダムな羽毛の「群れ」の動きへと「引き込まれ」、「立体」的に羽毛と一体化するということはあるのでしょうか。
「私」が、目的なき無数の羽毛の散逸と振動のなかで、羽毛と一体化すること。そのとき「私」は、歴史の主体を占めようとする「われわれ」とは異なる、軽やかな変容の場へと、自らの内なる「群れ」を開くのではないか──。そのように夢想するとき、かつてジル・ドゥルーズが語った「生成変化」という言葉が、私の口にのぼりそうになります。しかし、無数の「羽毛」に「生成変化」することなど、私たちに本当にできるのでしょうか。


■変容と沈黙

問題をエイゼンシュテインの圏域から開放しておくために、最後に別の映画監督たちの作品を導入しておきましょう。ストローブ=ユイレの《セザンヌ》(1989)です[fig.15]。
「あのサント・ヴィクトワール山を見てごらんなさい。なんという勢い、なんという太陽の激しい渇望、そして晩になってあの重量が全部下りてきたときのなんというメランコリア……あの石の塊は火だったのだ。まだ中に火を秘めている。昼間、陰は震えながら後ずさりしているみたいだ、あの塊を怖れているみたいだ。[……]大きな雲が通るとき、下へ落ちる陰は岩の上で、まるで焼かれたように、火の口に即座に吸い込まれたようにして震える[……]。私は長い間、サント・ヴィクワールが描けずに、どうして描けばよいかわからずにおりました。ものを見ることを知らない他の人たちと同じに、陰影が凹だと想像していたからです。ところが、ほら、見なさい、陰影は凸です、その中心から逃げています。縮むかわりに、陰影は蒸発して、流体化する。」(ガスケ『セザンヌ』、與謝野文子訳、岩波文庫、2009、221-222頁)

サント・ヴィクトワール山のフィクス・ショットとともに聞こえているのは、ダニエル・ユイレが朗読する、ジョワシャン・ガスケ『セザンヌ』の一部です。ほぼ原文通りですが、途中、元のガスケのテクストから次の一文が省略されています。「上のほうに、プラトンの洞窟がある」。
原文の「プラトンの洞窟」はもちろん単数形です。しかし私たちはガスケのテクストを拡張して、むしろ山とは、山肌の無数の窪みに落ちる「影」から、つまり浅かったり深かったりする無数の「プラトンの洞窟」に落ちる「影」からなる、無数の「映像」の群れであると考えることもできるでしょう。サント・ヴィクトワール山は「超個体」的に集合する影=映像のコロニーなのです。だがその群れなす陰=映像の一つひとつは、それぞれの窪みの内に閉じられてはおらず、たえず振動し、凸状に盛り上がり、空へと蒸発しつづけている。その蒸発のなかには、ガスケを通してセザンヌが語る、かつて火の塊であった山の爆発的な熱が生き続けています。そのような、潜在する無数の「火」を見ることにおいて、山は群れなす炎へと変容し、同時に観客は、現在の自己とは異なる、反時代的な、来るべき身体へと生成するべく誘われている。
しかし、そのような振動と蒸発を、実際に「見る」ことはできるのでしょうか? スクリーンに映し出された山の表面に、そのような「火」を本当に見ることはできるのでしょうか? できません。少なくとも私には見ることができない。ここでストローブ=ユイレと撮影監督のアンリ・アルカンは、その不可能性を十分に意識した、徹底して「自己欺瞞」を排した撮影を行なっています。インチキして「火」が見えるかのようには撮らないということです。しかしそれでもなお、観客は、見ることができない、ということのなかに閉じ込められているわけでもありません。少なくとも理論的には。なぜなら知覚は、知覚が接触する世界の振動のただなかで、たえず自己差異化的に再作成されつづけているからです。
しかしその再作成の場に正確に接触するためには、人は、自らの知覚にはいまだ何かが可能ではないということを、まず正確に認めなければならないはずです。サント・ヴィクトワール山が、その内部に火を隠しているとは、「私」にはけっして見えない。そして安易に「火が見える」、と言ってしまったとたんに、本当に火が見える可能性は完全に閉じられてしまう。知覚の変化可能性は、私がその変化を外在的に、つまり目的的に先取りしたとたんに閉ざされてしまうからです。
それゆえ、「生成変化」という「言葉」を簡単に口にしてはならない、と言うべきなのかもしれません。なぜなら哲学的ジャーゴンとしての「生成変化」とは、変化の内在性についての外在的記述でしかないからです。
泳ぎを覚えつつある身体が、「泳げるように『なる』とはどのようなことか」について言語的に自己記述することはありません。そのような記述を開始した途端、群れのプロセスは外在的に観察された形態へと固定化され、変容は停止してしまう。飛行機をいままさに胴体着陸させようとする者が、私はいま「飛行機」へと生成変化しつつあると意識したとしたら、それはパフォーマンスを鈍らせる危険な自己記述、つまりは自己欺瞞にしかならないでしょう。そのような記述を行なうのは、つねに、出来事に対して外部に位置する、危険を免れているつもりの「観察者」でしかありえません。
身体にかかわるあらゆる変容は、沈黙を要求します。「私」が変容するとき、「私」の自己記述は解除されていなければならない。それゆえ「私」は、「私」の身体が何をなしているかを知っていてはならない。それゆえ変容について自己や他者に対して直に語ることはできない。しかしそのような沈黙=自己記述の解除をとおして、「私」は初めて群れとなり、変容プロセスのうちに身を置くのではないでしょうか。そしてそのような沈黙のなかで接触するとき、映像は、私を、私の知覚のトートロジカルな閉鎖性から連れ出す、「変容」の場として現われうるのではないでしょうか。蜘蛛の網のスクリーンは、そのような場へと、私たちを誘っているように思います。

以上で私のプレゼンテーションを終わります。みなさんからのご意見を楽しみにしています。

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