岡村
これよりラウンドテーブル第2回めを開催したいと思います。今日は前回の議論を受けて榑沼範久さんに司会をお預けして進行したいと思います。榑沼さん、平倉圭さん、ドミニク・チェンさんの順にプレゼンテーションしていただき、そのあと柳澤田実さん、大橋完太郎さんを含めて前回同様にディスカッションに進みたいと思います。それでははじめましょう。

■ある「密度」を備えた映像・場所の準備

榑沼
よろしくお願いします。前回に引き続き今日も日曜日です。恵比寿を歩いているとクリスマス・ショッピング真っ盛りです。そして、われわれはこの会議室でこれから何をしようとしているのでしょうか。もしかしたら、平倉さんが前回の話題に出されていたように、われわれはプラトンの洞窟のなかにいるのか。そうではなくて、商品のファンタスマゴリア(幻影)を渡り歩く消費者のほうが洞窟のなかにいるのか。両方とも洞窟のなかにいるのだと僕は思います。そもそも、なぜ今、われわれはデヴィッド・リンチやジョージ・バークリーを論じてきたのか。なぜ今、大乗寺の円山応挙の「動く」襖絵やフライトシュミレーターに汗をかいた経験、あるいはレザーフェイスが朝日のなかでチェーンソーを振り回す『悪魔のいけにえ』に本気になった経験を語ってきたのか。なぜ今、われわれは知覚と倫理、そして映像による世界の知覚と経験について探求しようとしているのか。こうした意識から離れることができません。それは、われわれが映像やファンタスマゴリアという洞窟の外にいるのでもないし、洞窟を忘れて、そこから完全に脱出しようとしているわけでもないからだと思います。われわれは雑多な洞窟の混合物のなかで生活しながら、それぞれがいくつかの洞窟を本気で経験しようとしてきたはずです。そして今、未だ輪郭が定かではないような洞窟に住みなおそうと、洞窟の岩や土を掘り返し、洞窟のなかでチェーンソーを振り回し(笑)、地図を作りながら、手探りで歩きなおしている。それにしても今、なぜそうするのか、何を探しているのか。われわれの話し合いのなかで2010年2月の恵比寿映像祭で行なうラウンドテーブルの主題に決めた「映像の生態学」に向けて、探求の種をまたひとつ蒔くことができればと思っています。
今日もラウンドテーブルが始まる前から、いろいろ話が始まっていましたね。ドミニクさんとは最後、人間が活動する時間帯の話をしていたんですよ。例えばインターネットで24時間オンラインになっているゲームに加わると、自分が寝ているときに別のゲーマーがプレイをしているかもしれないですから、とても寝ているどころではなくなってしまう。自分のアバターが破壊されてしまうことが気になるものだから、眠りについても、すぐ起きて確認をしたくなる。そうしているうちに、目を覚ましている時間の頻度が高まり、不眠状態に近づいていくというのですね。これは極端な症例ですが、しかし、オンラインゲームの網にからみ、からまれている人たちに限らず、すでに経済や通信の流れでは24時間、膨大なデータが動いていますし、そうしたデータ圏に生態を合わせようと生きている人々は無数にいるわけです。
こうした人体の生理的リズムを超えたところで動いている世界は、すでにわれわれの日常生活を支える環境のひとつになっています。とはいえ、そうした24時間稼働の環境に、どれほど個々の人間は住み着くことができるのか。住み続けることができるのは、おそらく未来のロボットやコンピューターだけかもしれません。あるいは、薬物や脳開発によって肉体の生理を改造し、人間を不眠ロボットに近づけようするのでしょうか。すでにある国家では、ロボット兵士のみならず、薬物や刺激を肉体に与えることで睡眠を減らせる兵士、あるいは不眠状態でも疲労を感じなくなる兵士を開発しようとしていると聞いたことがあります。戦場ならずとも、24時間稼働する生活環境がわれわれを包囲してきているようです。脳ブームや薬物問題の背景、あるいは個人単位ではない単位を主体とするプログラム開発の背景には、こうした環境の変化があるのでしょう。今、ひとつにはこうした状況のなかで、われわれ自身の生をどのように構築していくのかが問われているのだと思います。

■Twitter効果、ロボット効果

ところで、僕は最近「多重放送」にこだわっているところがあります(笑)。声の真似をするのが好きだということもあるし、また情動の舞台としてなるべく演劇的に場を作りたいということもありますが、この場にはいない人がいるように「呼びこもう」とするときがあります。その説明になるかわからないのですが、今、横浜・馬車道の「北仲スクール」でサブカルを主題とした公開講座の企画・運営をしていて、するとだいたい講演会場には終始iPhoneに向かってTwitterをしている人たちがいるのですね。ほんの時折、顔を上げて何かに反応している。ノートをとっている聴衆と変わらない部分もあるのですが、大きな違いは会場にはいない人とTwitterを通してリアルタイムで、その講演についてコミュニケーションしている可能性があるということなんですよ。その意味で、隣の人と会話を交わしている聴衆とも違うんです。次々に更新されていくTwitterの短文を読んでいるだけの人もどれだけいるかわからないので、この場に不在の匿名多数が聴衆になっている可能性がある、ということを強く感じました。司会などをしていると、目に見える聴衆と同時に、これは不可視の匿名多数と知らぬ間に応酬しているのだと意識させられる場面もありました。
余談ですが、『アーキテクチャの生態系──情報環境はいかに設計されてきたか』(NTT出版、2008)の著者である濱野智史さんを講演者としてお招きしたとき、僕は司会をしていたのですが、講演者仲間のTwitterの書き込みには、司会や会場からの疑問や反論など、現場の複雑な状況はまったく拾われていませんでしたね。Twitterやニコニコ動画で展開されているネタ的コミュニケーションに関して、ウェブの生態系や進化論といった自然学を隠喩に語ることを「ネタフィジックス」と冗談で呼んでもみたのですが、これも素通りでした。ニコニコ動画の肯定に終始するイデオローグ的「ネタフィジックス」ではなく、ぼくは「メタネタフィジックス」を濱野さんに期待していたので、悪意がばれてしまったのかも(笑)。もっとも、横浜国大の学生が教えてくれたのですが、Twitterには後日、「北仲のあいつらはニコニコ動画の奇跡がわかっていない」とか誰かが書きこんでいたようですね。「シネフィル」ならぬ「ニコフィル」からの投稿なのでしょう。こうした短文を目にすると、ネット住民が言うところの「スイーツ(笑)」をもじって、「ツイート(笑)」「ツイート(ニコニコ)」とか揶揄したくなってしまいます。50%は面白くて、50%は悪意をはたらかせてなんですが[fig.1]。
ただ、一番面白かったのは公開講座後の打ち上げでしたね。偶然、講演者御一行と合流したのですが、居酒屋でも何人かがiPhone片手にビールを飲んで、Twitterで実況中継をしているわけです。途中、「ヨコハマ盛り上がっているみたいだね」とか、その場にいない東浩紀さんからも書き込みがあって、Twitterをしている人たちがどっと盛り上がったりする。15人ほどの宴会が、知らぬ間に、その場にいない人まで参加した大宴会になっていたようです。そして、Twitterの文字制限に作用を受けているかのように、現場での会話も一言一言が短い(笑)。もともとそういう会話が染みついた集まりなのか知らないですが、居酒屋でも短文がどっと増殖していくんですよ。誰かが「ネタ」を場に投げこむと、魚の群れが集まるみたいに「ネタ」に食らいついていって、短文がどんどん更新されていく。知らぬ間に「ツイート(笑)」たちは、Twitterを模倣しているのでしょうか。
12月13日に東京藝術大学先端芸術表現科で行なわれたラウンドテーブル「人は自分を作れるか──ロボット工学からアートまで」で、ロボット工学者の石黒浩さんとご一緒しました。石黒さんによると、自分に酷似したロボットを制作しているうちに、だんだん自分自身がロボットに似てきたと他人から言われるし、自分でもそう感じないわけでもないと(笑)。ロボットにもTwitterにも、似たような模倣誘発性があるのでしょうか。落とし気味の照明ならば、5秒くらいはどちらがロボットかわからないようですね[fig.2]。

石黒さんはまた、心は制作できるとも言います。ただし、心というものが実在しているかどうかは、われわれ自身の心の実在だってわからないのだから、そこがロボット制作のポイントではないのだと。心の実在はよくわからなくても、それでも、われわれは機械でできたロボットに十分に心を読み取ることができるし、心があるものとして振る舞うこともできる。その意味において、心は制作できると言うのです。極端な話をすると、人間である自分を含め、心が本当にあるのかどうかは問題ではない。お互いに心があると思うことができればよい。そういう思いを作り出すメカニズムが起動すればいいわけです。ですからロボットは、心がそこにあると思わせるメディア、そしてコミュニケーションをわれわれに誘発する力があるメディア。そう考えることができるのではないでしょうか。 話を戻しますが、横浜で合流したTwitter的宴会は、正直なところ僕自身にとっても結構楽しかったんです。宴会に参加していた人たちが、ロボットであっても人間であっても構わないくらいに。公開講座の企画・運営に疲れた体にもちょうどよかった。もったいぶった人たちが多く集まって、直接思考や直接情動を動かさないような学会や学会のあとの懇親会よりも、140字だろうと何だろうと、相手がロボットだろうと人間だろうと、ぼくにとってはそのほうがかなり本気になれたし、面白かったのです。「ツイート(笑)」「ツイート(ニコニコ)」「ネタフィジックス」とか言いながら、たとえ体が疲れていなくても、もっと全身でTwitterに本気になれるとさえ思っています。それが「奇跡」とか、絶対に書きませんが。

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