■自然史における倫理は可能か

岡村
それでは後半の討議に移っていきたいと思います。今回ある種の結論を出すということが目的ではなく、次回のセッションへと架橋することができければと思います。

柳澤
今日の2つのプレゼンテーションを踏まえ、皆さんにそれぞれコメントをいただきました。おそらく倫理のことを強く意識しているのは平倉さんで、折に触れてそういう問題系に接合する可能性をいろいろ示していただいていると思います。逆にそのあたりには触れられていない榑沼さんや大橋さんにも、知覚の側から倫理を捉えていくことについて、現時点での見通しや手ごたえみたいなものがあればお話いただければと思います。

榑沼
ぼくも意識していますよ(笑)。平倉さんが思い出してくれたけれど、たぶんラウンドテーブルの収録が始まる前でした。スピノザの『エチカ』に書かれている快楽と快活の区別を話題にしましたよね。それはギブソンによる神経システムと知覚システムの区分に、スピノザの区分を重ねてみたいと思っているからです。脳や神経系など、それぞれ身体の一部を刺激することによって生じる快楽とは異なる快活さ、それをわれわれは経験することがあるはずです。脳も神経系も全身も組みこんで、本気で知覚システムが作動したときに生じる情動は、スピノザが快楽と区分した快活なのではないでしょうか。
ただ、まだまだよくわからないところがあります。倫理について、平倉さんが「栄養補給」と「生殖」を過度に追求しないことを挙げられていました。僕もスピノザを読みながら、自分の身体が律される経験を思い出すことがあります。ただ、「全体」とは何か、それが難しい。ナチュラル・ヒストリー(自然史)の全体まで拡張して、複数の異質な時間や持続が織りこまれたときに、自分の欲求・欲望を抑えることが、自然史の全体においてどのように事後的に評価されるのか。これはすごく恐ろしい問題です。ダーウィンやフロイト、あるいはジョン・ケージのように過酷な諦念や放棄が、人間に対する強烈な批評性を持ってくる。いや、問題の立てかたが誤っているから恐ろしいと感じるのかもしれません。また、ベルクソンが言うような、過ぎ去った過去ではなくて現在とつねに共存している過去の記憶の多くのレイヤーも、その全体に入ってくるとすると、倫理の問題はどうなるのでしょう。
だんだん話を知覚にも寄せていきますね。デヴィッド・リンチに戻りますが、平倉さんの指摘にぼくも同感で、口パクであることを明かすことや、カメラがあることを示すような自己言及性には、以前からどうも乗れないものがあった。そうした映像を評価する言説にも、それがそんなに重要なことなのかと首をかしげるばかりで。そうした自己言及による批評的映像は、映像以外のものに色目を使っているのではないでしょうか。その意味で、死体の肉のテクスチャーを味わうことが、われわれの社会にとって正しいか間違っているかという問題も、リンチの映画を映像のなかに完結させないようにしてしまう問いかけです。ここで情動という言葉を使ってしまいますが、むしろ映像それ自体がどのような情動を作りだそうとしているのか。思考実験と同じ意味で、リンチの映画を情動実験、あるいは知覚−情動実験として考えてみる。これはモダニズム芸術の自律性とは違って、われわれと映像を組みこんだ回路にどのような知覚と情動が生じるかという問題です。実はふだん授業をしながら、大学の教室もこうした知覚−情動実験の場に接近させなければと思っています。
最後に宗教的経験と絡めての話なのですが、先ほどお話した大乗寺の応挙の襖絵はひとつの絵で構成されているわけではなく、複数の襖絵が螺旋形に配置されていました。そして、螺旋の中央には本尊があるんですね。ですから、襖絵を眺めながら螺旋形の舞台を人が移動していくことになります。本尊に至る途中には、だまし絵や遠近感や高低感を狂わせるような絵が挟まれている。柳澤さんのリンチの話を聞きながら考えていたのは、応挙の襖絵を配置した大乗寺もまた、知覚と身体行為の関係をじかに作り替える実験装置ではないかといことです。そうした試練をわれわれに課し、それをくぐり抜けてからわれわれは最後の本尊に直面するのです。これは本当にぎりぎりの設計だと思う。おそらく宗教的経験が精神的次元というより、知覚と身体行為それ自体の次元において、応挙の絵を見るわれわれとともに作りだされようとしている。柳澤さんの設定された問題に近づくのではないかと思います。

大橋
それも面白いですね。先ほど僕が言わなかったことなのですが、なんにでも触れうる世界には基本的に良いものも悪いものもある。バークリーの体系で面白いのは、触覚とは、ある仕方で触れた対象と触れられた対象が一緒になる、区別がつかなくなるような経験だということです。それはつねに変化や変成の可能性を含んだ行為です。食べた結果腹を壊すことも当然あるし、かといって腹を壊すものがすべて悪かと言えば、壊さない人もいるからそうは言えない。ただバークリーにとって、世界が接触可能性の総体であるということは、視覚的なものが条件づけられているための最低条件ではある。そこにおいて、存在するものは、その存在という意味では善であるという可能性は担保されるが、行為主体、すなわちエージェントとの関係において、それはあるいはエージェントを破壊しうるし、あるいはオブジェクトを変容せしむる。存在とは贈与であり、贈与とは毒にも薬にもなるものだ、というハイデガー=デリダ的な存在論にならって言うならば、まさしく「あらゆるものは毒にも薬にもなる」わけです。それが倫理と言えるのか、と言われると僕もまだ考えているところです。
話を映像に関係させて、少し似たレヴェルの話を引いてみることもできます。中原昌也さんは「ホラー映画が好きである。なぜならそこでは本当に人が死ぬことはないから」と言っています。榑沼さんがおっしゃったような、映像であるがゆえに許される非倫理性、映像こそが持つ倫理性というものが、おそらくは「存在する」と思う。ただ、存在論の地平に拘泥せずとも、あまりに破廉恥なものが続く映像なら、観るだけで気分が悪くなるなど実際に有害になることもある。そうなると、ナチュラル・ヒストリーや生きている存在というレヴェルから、存在論的なレヴェルやそれが媒介として変容するレヴェル、あるいはそうしたもの同士が出会っていくレヴェル、といった複相性を考える必要がある。この点に関しては、中間的なレイヤー、あるいはエフェクトといった次元を考える必要があるのかな、と思います。エフェクトというものはすごく微妙な概念で、実際には効果がはっきりとあるのですが、エフェクトそのものはなかなか見えない。けれどもそこで、例えば風邪薬の効果のように、まさに「エフェクト」なしには成立しえないことが多々存在している。そういうことを考えさせられました。

柳澤
人が実際には死なないけれど、本当に死んでいるかのように見せてくれるのがホラー映画のすばらしいところです。要するに、先ほど榑沼さんが「実験」とおっしゃっていたことと関係すると思いますが、ある現実の物質が壊れる、人が死ぬといった物質的必然性みたいなものを、映像のなかでは余すところなく見せることができる。それを外部から倫理的にいかがなものかという仕方で評価するのかは確かに難しい問題ではあります。平倉さんがおっしゃるような、ある種の抑制として倫理を立てていくという話はすごく正当な気もしますが、それでも榑沼さんがスピノザやナチュラル・ヒストリーを引きつつおっしゃっていた、倫理のクライテリアとなる「全体」をどこにおくのかという問題が残されている。抑制の程度はけっして主観的には決められないものだからです。

■スピノザ的「全体」と過酷な倫理

柳澤
私はスピノザについて、榑沼さんや平倉さんが読んでいるのとまったく違う読み方をしていて、もっと残酷な哲学として理解しています。なにが自らの身に起ころうと「全体」(彼が呼ぶところの実体=神)が、それを必然としている可能性がある限り受け入れざるをえないという、ものすごく悲惨な倫理でもあるわけです。しかもその必然のただなかに生きる私たちには、その必然の全体像はけっしてわからない。しかしながら同時にその必然性とは、私たちがその全体を知る地平には限りなく近づき、またそれに賛同することができる必然性であるという点に、私はすごく魅力を感じます。私はアートという実践にもそのような必然性に接近していく可能性があると思っていて、作品を人間単体や社会や自然史といった異なるスケールにどんどん拡張したり縮小したりすることができるのではないかと思う。これは日常生活においてはなかなか困難なことです。さらにひとつの作品のなかで複数のスケールを見せることによって、全体的必然性とでも言うべきものに限りなく近づく、そしてそうすることにより、その作品を通じて観者が全体的必然を知ることができる。そういう可能性を実現できている作品もあると思っています。

榑沼
ぼくは残酷という言葉では意識していないのですが、すごく過酷な倫理だと考えています。ある個体なり集団が、ある歴史の一時点において、これが全体だと想像可能なものは、まったく全体だとは思わない。自然史はだから過酷である。そして、そこに接近可能かどうかはわからない。

大橋
スピノザの哲学の教えは、端的にいえば、過酷であることを理解せねばならない、ということです。理解することによって、理解できたという最小限のポジティヴな情動が生じ、ここに過酷さの理解可能性とそれを中和する処方箋がある。そうして、理解するためには、スピノザが「精神の眼」と呼ぶ力、すなわち理性のもつ合理的な力、論証する力を鍛えないといけない。それがスピノザのテーゼであり、いわゆるベタな運命論とは違うフェーズにあるのです。そうして、人間にとって、理解することとは、人間が人間であることのうちに内在している、個体として「がんばろう」という生存の力(コナトゥス)です。ものごとを精神の眼でよく見るようつくづく努力しよう、というわけです。逆に、なにかよくわからないところで動かされている自分は、そこにおいて渾身の力で努力しないとコナトゥスを破棄することになる。過酷さ、酷薄さのただなかにおいて、でもそこになにかが見える、なにかが自分で見てわかる、あるいはなにかを見せてあげる、といったことが可能になるならば、そのときある種の「共通の」理解が生じて、救われる、とまで言えば言い過ぎですが、ともかくはなにかしら存在として落ち着くだろうというのが、上、すなわち神としての世界の総体からの運命に抵抗する、下、すなわち個物からのがんばりの態度になる。

平倉
私も大橋さんのおっしゃるように、すごく過酷なのだけれどもそれを理解し、認識できる限りにおいてこの私は幸せだと言える、そういう場所があっていいしあるべきだと思う。問題は、そういう認識ができるような解像度を私が持ちうるのかということです。私はどうしても具体的な作品を考えてしまうのですが、デヴィッド・リンチの作品が私にそういう解像度を与えてくれるのかと考えると、躊躇してしまうというか、はっきりそれは「ない」と言ってしまいたい気持ちがある。《インランド・エンパイア》のいちばん最初のシーンでは、レコードプレイヤーがなにかよくわからない音を流している。その次に、またよくわからないホテルの廊下らしきシーンで、顔がぼかされた人物たちのものすごく解像度の低い映像が流れる。なにか不安な感じがするし、音もぼんやりしてよく聴こえない。そういう状態において働いている知覚とはなんなのか。
最近たまたま、『Visual Neuroscience』という雑誌を見ていて、そのなかにAntonio TorralbaというMITの研究者が書いた「How many pixels make an image?」という論文がありました。いくつのピクセルがあればイメージを認知することが可能なのか、解像度をどこまでぼかしていくと人間は認知ができなくなるのか、という実験です。結果は32×32ピクセルで、それ以上だと、提示されているのが高速道路の写真だとか、寝室の写真だとかいうことがわかる[fig.14]。
私たちはそれくらい低い解像度で認知可能だということに驚きを感じますが、導かれるのは、知覚はつねに、知覚自身の内で自律的に作成されているということです。見えている解像度以上のものを私たちは見てしまう。それは私たちのさまざまな妄想や不安が活性化される場でもある。ぼやけた場に取り残されれば、さまざまな不安なものをそこに見てしまう。それが思い込みという問題でしょう。
そういう状況に知覚を置くのではなくて、どこまでも鮮やかに見えたり聴こえたりするところに、倫理の最低限の基盤を考えたいという気持ちがつねにあります。そういう意味では、いくつかのホラー映画にはたしかに無数の覚醒の契機がある。私はまだ映画を何も知らなかった若い頃に、トビー・フーパーの《悪魔のいけにえ》(1975)[fig.15]を観て、ショックで一日言葉が喋れなくなってしまったことがあるのですが(笑)、レザーフェイスが扉を開ける速度とか、朝日のなかでチェーンソーを振り回すときの始まりと終わりが一挙に到来してしまったような感覚とかが、ものすごく解像度の高い経験としていまだに身体のなかに残っている。ショックということのなかにもいろいろなものがあるはずだし、それをあくまで具体的な映像や音の現われのなかから考えていきたいと思っています。

柳澤
今のご指摘には強く賛同したいです。《悪魔のいけにえ》は、ある暴力の発生を複数のユニットで見せることによって、その暴力の必然性を感動的なまでクリアに提示することに成功していました。これが平倉さんのおっしゃる解像度の高い経験なのではないか。たまたまロックフェスに行くために通りがかったテキサスで若者たちがひどい暴力の餌食になるわけですが、暴力を行使する異常者が実は、グローバリゼーションによって生きるすべを奪われた結果、人肉バーベキュー店を細々営まざるをえなくなった家族であって、彼らもまた暴力の被害者であることが明らかになる。レザーフェイスは、その家族の三男坊で、エプロンをしてなぜかおばさんパーマのかつらをかぶって、家計を切り盛りしているわけですが、確かに彼が夕日をバックにチェーンソーを振り回すラストシーンは、言葉を失うほど清澄で、語弊を恐れず言うならばポジティヴな場面でした。他方リンチの場合は、すごくネガティヴなかたちで、そう簡単には必然性を眺められる地点には立てないという事実を突きつけているようにも思われます。リンチの作品では、主人公たちは必ず何かよからぬことに巻き込まれているわけですが、それが果たしてリアルなのか単なる強迫観念の産物なのかは絶対にわからない。ですから先ほども言ったように、身体の不在によって意識の閉塞を痛切に感じさせるということが──スピノザとは本当にネガ/ポジ関係のようなものですが──リンチにおける倫理的な実践だということになると思います。

大橋プレゼンテーション
ラウンドテーブルトップ
榑沼プレゼンテーション