■質疑応答 2

岡村
皆様からご意見をいただいた後、休憩を挟んで最後のディスカッションに移りたいと思います。

榑沼
ご報告の要点ではないのですが、300年前から400年前は動画のない世界だという前振りにやや違和感を覚えたので補足させてください。というのも、カメラ・オブスクラは動画の装置だと実感したことがあるからです。しかも、カラーの動画です。ハイデッガーが教えていたこともあるドイツのマールブルク大学に行ったときのことです。夏の催しものだったと思いますが、マールブルク城の横にカメラ・オブスクラが置いてあったんですよ。さっそくなかに入ってみると、アウトバーンを走っている色とりどりの車が映っている。それを見たときに、自分は動画の誕生の歴史をずいぶんと限定してイメージしていたのではないかと思いました。動画というものをあまりに限定して考える癖があることに、ぼく自身、生々しく気づいた一日でした。東京藝術大学取手キャンパスで毎年開催している展覧会「ART PATH」ではカメラ・オブスクラに仕立てたバスに乗れると聞いているので、今度その動画も体験してこようと思っています。これはバスも動くのですが(笑)。
もうひとつ、数年前に「絵画は動く」ということを経験しました。それは絵画の見え方が、われわれの移動とともに変化するという意味ではありません。建築で言うならば、例えばル・コルビジェの設計したサヴォア邸が歩行移動の循環によって見え方を変えるといった意味ではなく。また、ホルバインの描いた髑髏のアナモルフォーズのように、正面から横に移動すると髑髏が見えてくるという話でもなく、絵画が動くのです。京都から山陰本線に乗ると城崎温泉を越えたところに大乗寺があるのですが、そこには円山応挙の襖絵があります。普段は日中も蛍光灯で照らされているそうなのですが、一緒に大乗寺に行った美術史家の木下長宏さんと副住職さんの交流があったため、蛍光灯を外すことができたんですよ。まず夜に蛍光灯ではなく、蝋燭を灯して絵を見ました。そうすると、孔雀や松の描かれた襖絵の背景の金箔が、蝋燭の炎でゆらゆらと揺らめくわけです。すると松の枝が動き始め、孔雀に何かが宿るようにすら感じる。翌朝にも大乗寺を訪ねました。すると、斜めから延びた日の光が境内の木々の影を長く作りだし、ちょうど応挙の描いた松とレイヤー状に重なり合う。風で枝葉が揺れれば、その重ね合わせも動くのです。それを見たときに、頭ではなく体で、「絵画は動く」いうことがわかりました。ラウシェンバーグのホワイト・ペインティングも周囲の影を映しこむスクリーンとして機能しますが、応挙の時代はそうした絵画の姿が日常だったのかもしれません。また、応挙自身が大乗寺のその場に来て襖絵を描いたといいますから、きっと太陽や蝋燭の光とともに襖絵の昼夜の姿を設計したのだと思います。ここからは柳澤さんが提示された宗教的・芸術的経験に話が繋がっていくのですが、長くなるので予感だけで留めておきます(笑)。

平倉
いまの、動きのなかでの経験、あるいは絵画そのものが動いているという榑沼さんのお話は面白くて、またそれは、柳澤さんの映画における探索する身体というテーマ、そして映画館における動けない観客ということにもつながってくると思います。バークリーの『視覚新論』には月の大きさの議論が出てきますよね。月が地平近くで大きく見えるという現象はバークリーのそこまでの仮説のなかでは説明がつかなくて、眼球の回転角度は同じなのに大きく見えてしまうことに無理な説明を加えていた記憶があります。そのことを考えていたときに気がついたのですが、月を写真に撮ると、地平近くでも小さく写ることがわかります。ですから、広告で京都のお寺の背景に大きな月がほしいというときなどは、合成して真実らしく大きくする。そこでは、実際の経験において大きさが違って見えるということが、写真という映像になることで落ちてしまっている。そこで落ちてしまっているのが、動く身体なのではないか。電車に乗っていると、近くにあるものは速く動きますが、遠くにあるものはあまり動かない。逆に言うと、観察者の移動にもかかわらず動かないものは、遠くにあって、かつ、それでも見えるくらい大きいものだと言うことができる。地平近くにある月は、手前の地形や構造物とはちがって、私がどんなに移動してもそれに対応して動くようには見えないということで、すごく巨大に見えるのかなあと、そのとき考えました。バークリーの思考から展開した場合、このような動く身体の問題を映像の問題とどう絡めて考えることができるか、関心があるところです。
すると、こちらの動きがどこから生まれてくるのかが知りたくなります。例えば、思わず絵の前で歩き回りたくなることがある。私は映画を観ながらでもできれば歩き回りたいタイプで、現在の映画館はエディットされ直すべきだと思っているのですが、では動きたくなる映画とはなんなのか。先ほど、大橋さんが「快/苦」といった触覚的な予知が視覚のなかに含まれているとおっしゃっていましたが、実際に映画や絵画の経験においてわれわれが思わず動いてしまうことは、この2項で説明できるような事態ではなく、そこにすごく複雑なシステムが作動しているわけです。そのシステムとの関わりのなかで、こちらも複雑に動いてみたくなる。そういう複雑さについて考えていければと思います。

榑沼
先ほど大橋さんも平面の問題を出されていましたよね。同じ平面でも距離の問題で思い出したのが、心理学者のデビット・カッツです。彼は色面をサーフェス・カラー(表面色)とフィルム・カラーに区別しています。サーフェス・カラーとは言ってみれば近づいて触ることのできるもの、日常の行動の範囲にある事物の表面に知覚される色です。それに対してフィルム・カラーは、カッツが映画や写真を意識していたのだと思いますが、われわれの身体行動、探索によって働きかけることができない色面、いわば探索する行為が編集でカットされた色面の色です。例えば、この目の前にある机をわれわれが見ているとき、手を延ばせばその色面に触れることはできる。カッツの区分では、サーフェス・カラーを見ていることになります。ところが、例えば紙を丸めて机の面の一部だけをのぞき見ると、ええ、こうして机の縁をのぞき穴から遮断して色面だけが見えるようにすると、机とも知覚されませんよね。自分の鼻のへりも見えませんから、ギブソンの言葉で言えば、ヴィジュアル・エゴ(視覚的自我)も編集されて知覚から外れてしまう。こうして見ると、この色面の距離感が攪乱されませんか。どこにこの色面があるのか、距離情報が著しく減少するのでしょう。これもバークリーとからめて議論できることだと思います。また、美術作家のジェームス・タレルもギブソンと「同時代」の人ですが、カッツの分析した色面の区分を巧みに活用して、距離を蒸発させるような作品を作っているのではないでしょうか。

大橋
どれもなかなか根本的な問題で、適切にお答えすることが難しいですが、さしあたり月の見かけに関しては、バークリー的には答えは簡単です。それは、はっきり見えていると思っていた月は、じつはあまりに遠いからぼやけていたのだ、距離調整がうまくいっていないはずだ、というものです。人はあまりに遠くから月を眺めているので、それは根本的にぼやけてしまっている、そうしてそのようなものは不定の距離の観念を与えるはずだ、だから見かけの大きさが変わっていく、ということになると思います。バークリーはそうは言っていませんが、バークリー的に考えればそう解釈することができるでしょう。
僕がバークリーのいわゆる観念主義の基底にあって重要だと思っていることは、一見純粋観念論に見える彼の体系が、探索する身体のどこにでも歩いていける可能性を担保していることや、あるいは逆に、映像のほうを中心に考え直してみたとき、見えるものは歩いて触れる可能性があるものだというふうにその主張が転化しうるものだという点です。世界を走破する可能性をバークリーの理論はつねに携えている。そこで、歩いて触れるときの感覚とはなんだろうと考えるとき、新しいとか惹き寄せられると感じられるものが、触覚性と不可避に結びついていると考えられます。
触覚性をめぐってアリストテレスまで遡ると、触覚性の対象は彼の哲学の基本概念である「驚きを与えるもの」とほぼ等価に結びついています。一方、近代において理性から切り離されていく情念においても、最初の情念とは「驚き」だとされている。つまり、アリストテレス的に、ひいては非−観念論的に考えていくならば、タッチすることがいちばん驚きを与えるわけです。視覚より何よりもタッチが驚きを与えるのだということが、アリストテレスに由来する触覚性です。では、さらにアリストテレスに従っていくとして、すなわちこの触覚的な驚きの地平を踏まえつつ、平倉さんのおっしゃる、身体が動くということの根本について考えてみますと、アリストテレスは2つのことを挙げています。すなわち「栄養補給」と「生殖」です。いまの動物行動学や生物学などを考えてみますと、これ以外にももう少しあるだろうと僕は思いますが、そのあたりはもう少し考えてみる必要があると思っています。

柳澤
すごく原理的なお話だったので、いろいろなことを考えさせられました。先ほど平倉さんが質問されてお答えになった、ものに触りにいくその最初の端緒となりうるものが、いまのお話ですとアリストテレスにおいては「栄養補給」と「生殖」でした。ひとつめの質問は、今日のお話の中心だった17、18世紀では、触るために動きだす動機づけとしてどのようなことが考えられているのでしょうか。今日は主にデカルトやバークリーらの観念論について触れられていましたが、逆に経験論においては、触れるために動く際の最初にある経験とは何になるのでしょうか、というものです。
2つめの質問はまったく異なる観点からになります。今回、私自身は生態心理学を用いたアプローチを試みましたが、生態心理学に惹かれる人はだいたい主観性や内面性が嫌いです(笑)。なるべくそういうものはなかったことにしたい人が多くて、自戒を込めて言うならば、そのせいで逆に歪んだ結論が出ることも往々にしてあるくらいです。今日のお話によれば、バークリーにとっては視覚が心の内と外を構成するけれど、触覚には内と外の差はない。私のプレゼンテーションでは、いみじくも視知覚のなかの触覚性が問題になっていたわけですが、あえて2つの内容を繋ぐならば、生態心理学における視覚はバークリーの言うところの触覚のほうに近いように思われました。視覚というものが主観的で内面を構成するというある種の思い込みは、西洋絵画史を眺めても強く感じますが、むしろ主観的意識の外にありうるような視知覚の可能性について、バークリーは認めていないのでしょうか。私の先ほどの話でいうと、そのような意識化をはみ出していく視知覚の領域に対して、触覚性という言葉が当てはまるようにも思います。いずれにしても、バークリーの場合、視覚と触覚が随分対比的にはっきり分けられていたのだなとあらためて驚くわけです。

大橋
ひとつめの質問から、お答えしたいと思います。「根源的な経験」とは、ロック以来の哲学においてしばしば問われる問題です。人間の心は「タブラ・ラサ(白紙)」であったと。白紙に経験が書き込まれることによって、いろいろ学んだり観念を作ったりすると考える。これは仮説としてはありですが、実証できるようなものではない、という気がします。ではタブラ・ラサに戻りなさいと言われても、経験的にも、あるいは催眠療法などを用いて医学療法的に遡行しようとしても、それはできないわけです。つまり、タブラ・ラサとは、なにか経験が心に書き込まれたあとから「そういうものがあったね」と思うようななにかでしかない。そしてまた、自分が起源だと思っていた経験、例えば「あのときお母さんの指をしゃぶったのが最初のおいしい経験でした」、みたいなものはフィクションあるいは探索まちがいでしかないと思います。それでもいいから起源にしてしまえ、という欲望がヨーロッパの17、18世紀頃には確かにありました。そしてそれが、巨視的なレヴェルの論においては合理的な国家の創設を目指す「人類のひな形」として措定されたり、あるいは微視的なレヴェルにおいては、個人の人生をその発生からなぞり直すような物語の発生を可能にします(『トリストラム・シャンディ』、あるいは孤島で「生まれ直す」破目に陥った『ロビンソー・クルーソー』などを想起してみることもできるでしょう)。とはいえ、ある種の「物語」あるいは「フィクション」を可能にしているこのメカニズムが、経験科学的に立証可能なものであるかどうかは、大いに検討に値する問題ではないかと思います。僕自身は、「フィクション」にはポジティヴな価値を認めたいと思っていますが。
アリストテレス説の検討に戻りましょう。人を動かす端緒となるものが「栄養補給」と「生殖」だと言いましたが、本当にそれだけだったのかと言えば、ここにも還元主義の罠があるような気がします。根本的にはその2つかもしれないですが、僕はこの2つの要素から導きだされる関数にはヴァリエーションがすごくたくさんあると思う。痛いのを避ける、濡れるのがいやだ、といったことを考えると、2つの原理から発する判断の総数は、周囲とのファクターですごく増えていく。旨いものを喰いにいく、気に入った異性を探しにいく、といった嗜好的な行為のみならず、殴られそうな人物との接近を避ける、喰われそうなライオンから逃げる、といったファクターが、それこそ環境との係数から無数に形成されるでしょう。それらを複合要因としてみなすべきであって、そこは単純な意味での二進法的な選択、すなわち「あるものはネガティヴかポジティヴである」という判断が必ずしも妥当しないような世界観になってくるだろうと思います。
2つめのご質問に関しては、『視覚新論』においては、それに対してはっきりした回答が与えられていないというのが正直なところです。観念論としてすべてを視覚の枠内に囲い込んだとするならば、視覚的観念世界、いわば知覚された「内的」世界以外に人間の外部はない、それが人間にとっての「世界」となる。通例的なバークリー解釈はそうした見取り図を示しています。とはいえ、バークリーの体系においても、触覚はつねにそうした視覚的世界の独我論的構造を支えつつ押し広げている、という気もするのです。ここにおいて、バークリーの世界像とも言える形而上学的体系を全体としてみなければならないと思います。神と呼ばれる創造主が人間の観念の内部に収まりうるのか、そうでないのか。そうでないとすれば、バークリーは神の位相を「どこ」として位置づけているのか。これらのことについては、『視覚新論』の後で彼が表わした形而上学的主著『人間原理論』を知覚論との関係で見ていく必要があるでしょう。柳澤さんの2つめのご指摘は、完全な独我論的観念論の外部をいかに問うかという問題の急所に関わるものです。

平倉
最初にある経験が「栄養補給」と「生殖」だけではないという話はとても面白いと思います。倫理について考えるとき、私はそれを食べないこと、生殖しないことの問題として考えることがよくあります。けれども私たちは身体をもつ知覚システムだから、食べないことはできない。食べ過ぎない、生殖についての欲望を最大化しない、というぐらいのことしかできない。しかしそこから逆に、榑沼さんがこの会の始まる前に口にされていたのですが、スピノザが、身体の一部の喜びだけを追求するのではなく、身体の全部の喜びを顧慮することが善だと言っていたことと、つながる場が見出せるのかもしれません。つまり、「栄養補給」と「生殖」だけではなく、同時に複数の方向に向かうような知覚の場というものを、ひとつの倫理として立ち上げることができるのではないか。
もうひとつ、これも参照項を増やしてしまうことになるのですが、ギブソンの師にあたる人で、エドウィン・B・ホルトという哲学者・心理学者が書いた『フロイト流の意図(The Freudian Wish and Its Place in Ethics)』(1915)というテクストがあります。彼が言うには、ひとつの志向性ですら、それを実現するためのシステムには2つの経路が必要だということです。例えばすごく原始的な、光に向かって泳いでいく動物を考えたとします。目が2個あって、右の目は左のひれ、左の目は右のひれにつながっている。光を感知すると、感知したのと逆側のひれが動いて向きを変える。向きを振りすぎた場合は、逆側の目が光を感知してまた向きを変える。こうして、2つの知覚行為系が重なると、意図と呼ばれる現象が立ち上がりうる。身体に潜在する複数性の問題をフロイトの精神分析とはまったく違う方向に発展させたホルトの思考が、ギブソンの根っこにあるということは、今回のテーマを考えるうえで非常に面白い参照項ではないかと思います。そこで問題になるのは、やはり複合性、複数性です。

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