■なぜ知覚、エチカなのか

柳澤
ご紹介ありがとうございます。ただいま岡村さんにご説明いただいたように、「映像」というひとつのメディアを中心に、単発で終わらない継続的な議論を作っていく場として、この「ラウンドテーブル」という場を設けていただきました。そのことにまずはたいへん感謝しております。

昨年度に開催された第1回映像祭は「オルタナティヴ・ヴィジョンズ」というテーマでした。このテーマ自体が、アートという狭い枠のなかで映像を捉えるものではなく、それを含めた私たちの日常的な経験が、ある意味ではオルタナティヴな知覚(perception)の経験の形成を示していると解釈できると思います。そういった、人間の作る人工物全般について考えていけるような、非常に大きなパースペクティヴを持った映像祭として企画されていたわけです。 今回は第2回で、「歌をさがして」というテーマが掲げられています。先ほども私たちスピーカーで少し話し合いましたが、この「歌」とあえて広義の名称で呼ばれているものも、同様にオルタナティヴ・ヴィジョンを担うひとつの単位=ユニットだと思います。「歌」なるものが私たちの知覚に大きな影響を与え、変容させたり、非常に強い力で規制したりしている。そういう認識を持って、もう一度映像作品や私たちが知覚できる人工物全般を捉え直していく。このラウンドテーブルはそういう問題意識を第一のベースとして共有し、ある提案を形成していくことになると思います。
では、具体的にラウンドテーブルではどういうことを考えていきたいのか。それは今日のプレゼンテーションの具体的な内容にも関わります。私のプレゼンテーションのタイトルは「知覚からエチカを考える」としました。知覚とは、基本的には私たちが生き物である限り持っているひとつの能力ですし、それ自体に良い悪いという規範性がない。それに対して、エチカとは倫理であり、こうなったほうが良いというある種の規範性・方向性を持っている言葉です。その意味では、あまり「知覚」と「エチカ」は相性が良くありません。ですが、あえてそういうところから考えてみたいと思っているのです。エチカとは「○○すべきだ」と義務のかたちをとって私たちが理解するものですが、もっと知覚の直接的なレヴェルで、私たちを何かの方向にぐいっと持って行く、そのように直接的に働いている倫理もあるのではないか。そのような倫理が働くユニットを、具体的な映像作品のなかに見出していけないのか。このような問いをこのラウンドテーブルで具体的に探究してみたいと思っています。

それでは、徐々にプレゼンテーションに入っていきます。いちばん最初に皆様にお話するにあたって、自己紹介的なものも含めつつ、なぜ知覚というものから倫理を考えたいのか、というお話から入っていきます。 まずは非常に一般的なお話からさせていただきます。私自身は、芸術全般について以前より関心を持って触れておりますけれど、もうひとつの強い関心の対象として宗教を研究しております。ある特定の経験によって人間が変容する、その契機にとても関心がある。宗教的な概念ではこれを回心(conversion)というわけですが、芸術・アートにもそのような経験装置としての役割があると考えます。こうした経験による変容をめぐる言説のなかで、研究を通じて私が最も違和感を持っていたのが、19世紀以降のロマン主義的な言説でした。ここでは、宗教的経験、あるいは芸術による経験は、非常に内面的で個人的な経験であるとされています。そういった伝統への非常に強い違和感があったわけです。もし本当に、人が強烈に変容してしまうのであれば、私たちが具体的に捉えられる直接的レヴェル、つまりその人の世界の経験の仕方、知覚の体制も変わるのだろうし、さらには周りで見る人もわかるようなレヴェルで、体つきや顔つき、さらには振る舞いまでも変わっていくはずではないのか。最近では、進化論的な見方もだいぶ人文科学のなかに取り込まれてきましたが、進化論的な観点から言えば、こうした経験による知覚体制の変容には、スケールこそ小さくてもある種の進化プロセスがあるはずだろう。例えばこういう見方をしていくと、作品を作っていく作家とその作品というものも、共進化(co-evolution)のプロセスとして読み解くこともできる。 そういったことを考えた結果、ここ2、3年のことなのですが、徐々にプラグマティズムや生態心理学に依拠するようになりました。生態心理学にはジェームス・ギブソンや、違う流派でロジャー・バーカーという人がいます。私はこうした人たちの理論を進化論や人類学と結合させて人間の文化を再定義していった、エドワード・リードの研究に非常に興味を持っています。私が行なっている研究をひとつ具体的に紹介させていただくと、以下のようなものです。内面的・精神的領域だとされている現象を、とりあえず知覚と行為のレヴェルでもう一度再記述してみる。例えば、ここにレンブラントが描いた聖書のワンシーンがあります[fig.1]。
イエスのようなパフォーマティヴな人間がいて、それを取り囲んでいる人たちはなにか強烈なトラウマ的経験をしている。そこで起こっている事態はどういうことなのかということを、「回心」や「赦し」といった概念に依拠せず、できる限り人間の知覚レヴェルで捉えられる振る舞いとその振る舞いによる変容として再記述してみる。そうすることによって、愛だの倫理だのと精神的営為とされてきたものを、具体的な訓練対象になるような行為や知覚として捉え直してみたいと考えています。
知覚レヴェルから精神的とされてきた事柄を捉えなおすという、こうした愚直なボトムアップ式の作業がなぜ必要なのか。抽象的な価値の概念が、私たちの周りには山のように堆積しています。とりわけ批評というジャンルは、概念に概念を重ねていくような、不毛な状況にあると私は思っています。とりあえず私たちが前提としている抽象的な価値を一度問いに付してみる。そして、価値概念をもう一度生態学的に、つまり生きるうえでどういう意味があるのか、というところから再記述する。こういうことを時間をかけてでもやらないと、いろいろな概念だけが不毛にひとり歩きして、言語で記述せざるをえない人文科学や批評は、私たちが生きているリアリティを根本的に掴み損なってしまうのではないか。そういう懸念が強くあります。同時に人間は、思考によって生み出される観念や概念によってリアリティを作り変えていく生物ですので、くだらない概念でも、それこそその人の世界の経験を変えるだけの力を持ってしまっているとも言えます。だからこそ、私たちの思考や行為を規定している概念を改めて問いに付すことが必要だと考えるわけです。

■正しく知覚すれば間違わない

以上のような問題意識を確認したうえで、「知覚からエチカを考える」という提言に改めて立ち戻りたいと思います。ひとつめに、なぜエチカなのか。従来の学問的言説において、倫理とは最も精神的な営為だとされていますが、だからこそエチカを私たちの生物としての基底をなす知覚から語り直していきたい。それが、宗教と芸術の研究をしている私の最終的な目標でもあります。このような大きなテーマに対する答えは、今回の映像祭に至る数カ月で答えが出ることとはとうてい思えないのですが、その可能性を見極め、必要な作業の見通しをつけるために非常によい機会をいただいたと思っています。ぜひこの機会にさまざまな作品を解析することで、いったい知覚のレヴェルでどういう倫理が可能なのかということを考えていきたいと思っています。
2つめに、なぜ知覚なのか。知覚とは抽象的な理解とは異なって、あらゆる人間、さらにはほかの生物にも開かれうる手段です。しかるべき手続き、訓練、手助けがあれば、すべての人間にアクセス可能なものです。このような知覚の公共性が生態心理学のひとつの前提としてあると思います。
3つめに、その意味で、エチカを知覚レヴェルから語り直すとはどういう意味か。こういう言い方も良かれ悪しかれだとは思いますが、少なくともある程度の留保はありうるとしても、原則的にはすべての人間に実践可能な、具体的な知覚訓練として、倫理というものを語り直すことができるのではないか、ということです。かつてのストア派は主知主義という立場をとって、正しく知性を行使して推論すれば絶対に倫理的にも間違わないと主張したわけですが、それに対して、正しく知覚すれば絶対に間違わない、という倫理を考えてみたい。駄目だったという結論になるかもしれませんが、それがどの程度まで考えられるのかを試してみたい。
補足として申し上げたいのは、そもそも今回の映像祭のベースにある「アート」や芸術も、基本的には「規範」の議論とすごく相性がよくない。芸術やアートと言われるものは、自律的な価値や自由を主張するために規範性とは無関係にありたい、そうでないと芸術活動が不自由になってしまうと、そう思い込まされてきた。これもひとつのイデオロギーであり、19世紀以降に強まった傾向だと思います。アートがリアリティを暴露するための営為で、またオルタナティヴなリアリティを創出しようとするものである以上、当然なんらかの理想をめざした倫理的な営みであると私は考えます。それは、言語とは異なる知覚というオーダーに基づいたものであるし、少なくとも、全部は知覚に還元されないまでも、知覚に先導されている。ここが重要だと思っています。言語で探求していくこととは違う倫理というものがあったら、それは非常に面白い。しかも、作品内部に潜在する知覚に先導される倫理にはまだあまり言葉が与えられていないのではないか。このような問題設定から、今回のラウンドテーブルやシンポジウムを通じて試みるのは、映像というメディアを題材にして、知覚に先導されるエチカに言葉を与えていく可能性を少しでも具体化することです。その先鞭として今日の発表では、デヴィッド・リンチの作品について考えてみたい。それがどれくらいうまくいったのかを、これから皆さんと一緒に見ていきたいと思います。

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