■「生態学的批評性」「生態学的制作性」のために

柳澤
ギブソンについては榑沼さんが整理してくれましたし、ギブソンよりむしろヴァレラに依拠しているというドミニクさんのお話を伺って私もかなり納得できました。良い悪いということではないのですが、語弊を恐れずに言えば、ヴァレラはかなり観念論的というか、身体と言われているものも精神の動きのほうに回収していくような感じがある。唯識ほど極端な立場ではないにしても、彼がナーガールジュナの『中論』に共感を寄せるのもそのような精神を延長していく彼の立場と関わっているでしょうし、おそらくそこに、単純な表象主義を退けつつもあくまで脳を中心とするヴァレラの立場が見て取れるのだと思います。さらに、夢を最もリアルな知覚体験とし、さらにそれを意志的に操作することに関心を持たれるドミニクさんは、ある意味ではヴァレラ以上に観念論的な気もしました。私自身はより素朴な実在論の立場に立ってギブソンを読んでいますので、そのような差異が興味深く思われます。 おそらく「生態学(ecology)」という語についても私とドミニクさんの理解はかなり異なっていて、私などはoikos(家)— logos(理)という原義に近い、あくまでも生き物が環境の資源を用いて棲めるように環境を改編し、同時に自らを改編していくという際の様態やそれを知ることで得られる理法・法則を念頭に置いています。その意味で脳内の映像が「生態映像」と呼ばれるというご意見には、違和感を覚えました。ただそれは、「生態学」という言葉のもとに、われわれが違う分野であっても重なり合うところを問題化しようとしていることでもあるので、非常に面白くもあります。とりわけ批評との接続の点で、そこで自然言語に翻訳しないという点が一番面白いですし、実装を行なっているドミニクさんに大いに期待せずにはいられない点でもあります。 ただそのときに、消失した可能性を再構成するというのは生態学的なのか、そこには疑問を感じました。Type Traceを実際に美術館で拝見して私が面白いと思ったのは幾つかの消失した選択肢が再現されるところではなくて、タイピングにおけるタイムディレイが文字の大きさになって現われてくるところです。「雲がもくもく」という文の、もくもくの副詞を筆者が悩んだ分だけ大きくなることが面白い。そこに生きるときのリアルな経験的質みたいなものが、文字の大きさに翻訳されてはいるにせよダイレクトに知覚可能なスピードや大きさとして現われていて、それこそ書き手の生き物としてのリアリティを感じてわくわくしました。何を言いたいかというと、生き物としての私たちはつねに、まさに不可逆的にいろいろなものを喪失して生きているわけです。うろ覚えで申し訳ないのですが、例えばヒトの神経の数は胎児の5カ月時にピークでその後どんどん減っていき、使うものだけが残るそうです。そういうことを考えると、失われてしまった選択肢を再構成することが、生き物にとって重要なのか。そもそも絶えず新たな刺激によって再組織化されているのだから、その必要はないのではないか。先ほどの生命の可塑性という点とも関わると思いますが、はたして失われていくものを可視化して見せることが何になるか、ということです。それはどこか生態学とは逆のものだという印象がある。同様に、一生の視覚情報を大容量ハードディスク数個分に納められるという話も、本当なのかなと思いました。例えばギブソンは知覚とは無限に行なうことが可能だという立場を取っていますよね。しかも意識化されていない領域まで含めるとなると、原理的にあなたが一生で経験した視覚情報はこれだけだと限定的に取り出せるという話はフィクションのような気がしてしまう。 榑沼さんに振っていただいた「生態学的批評性」についてですが、平倉さんの発表でも感じたことですが、知覚レヴェルであれ、脳内の情報処理のレヴェルであれ、まずは意識化されていない生き物としての活動から思考していくことが共通の出発点になるのだと思います。さらにそのような意識以前の領域に対して、どういうかたちで私たちが関わっていくかを考えることが「生態学的批評」が取り組む内容なのではないか。ドミニクさんが指摘されていたように、その際に、言語だけが批評の手段になるのではなく、創作に創作を返すような可能性も、それを促進するメディアやテクノロジーに支えられて今後ますます拓けていくのでしょう。ただその場合に、作品に作品を返すという小さなスケールだけで必ずしも考える必要はないとは思います。作品なんて概念がちっぽけに思われるようなスケールの変化、おしなべて言ってしまえば受容者の生き方が変わるという意味での変化を問題にしたい。「生態学的批評性」というものがあるとすれば、作品に対してつねに生き方で返されていくような、そういった可能性を考えることではないか。そのサイクルをどういうかたちで私たちが作っていけるのか、関係を作っていけるかということだと思います。

ドミニク
はい、そういう前提は理解できます。絵画であれば絵画を、それを経験したビフォーアフターのあらゆることを捉えることが生態学的観点であり、あらゆる行動パターンが経験の前後では変わっている。むしろ「作品」に応答を返すということは非常に狭い領域に属しているということですね。

大橋
お2人のやり取りのなかで一見対立しているように思える視点も、実は調停可能なもののような気がします。つまりドミニクさんのおっしゃっているのは、あるメディアを打ち立てることによって、意識されなかったものを再意識化させることができるということだと思う。結果としてそこで出てきたメディアそのものを供与することで生き方が変わることもまたあるのではないかと。その意味で、それは生態学的、身体的に還元することも可能だという気がします。これはむしろ折り合いをつけることで膨らむ話ではないでしょうか。 で、僕がドミニクさんにお訊きしたかったのは、「dividual」という概念に関してです。この言葉がドミニクさんにとっての鍵概念だということは間違いないとしても、ドゥルーズの引用として読む限り、ドゥルーズはこの言葉にネガティヴなイメージを与えているように思えます。ドゥルーズにとって、「dividual」とは物象化の果てにあるもの、計算可能になってしまった材物、あるいは「確定記述の束」に成り果ててしまったなにかだと解釈されている。ドミニクさんはその文脈から離れて、それとは違う意味で「dividual」に賭けたいと思われている。そのポジティヴなイメージがどういうものなのかをもう少しつっこんでうかがいたい。

榑沼
先ほど、「dividual」の目指しているのは生成力というより、継承可能性の価値であるともおっしゃっていましたね。

大橋
そうでしたね。さらに突っ込んで聞きたかったのは、ドミニクさんの賭けどころの詳細を踏まえたうえでこの概念をポジティヴに転化させることができれば、これはもうすごい批評的な喚起力があると思うのです。

ドミニク
ドゥルーズの批判的な意図は理解したうえで、肯定的に捉え直したいと思っています。例えばウェブのコミュニティの活動を追っていて、自分自身もウェブユーザーとして普通に生きている。あるいはウェブとはまったく関係なくても、それこそ生態学的にこうして生きているなかでも、複数性というものが大切だと思っている。こうした複層性や複数性を統合していくことと統合させずに拡散させていくという議論の間に、もっと解像度を高めるような議論も可能なのではないか、という思いがある。「dividual」と呼んでいるものは、「individual」よりも人間の本質に近いのではないか。もちろんドゥルーズはそれを批判的に捉えたわけです。だとすれば、人間の存在はほとんど情報的に細分化され続けてしまう、それこそ東さんの言葉で言うと確定記述化されていくことになるけれども、僕はそれ以外にも、個体の複数性というものを肯定的に捉えていくことができると思うのです。Type Traceでやりたかったのは、そうした自分のなかの複数のモードをあぶり出すことです。陳腐化した言葉になってしまいますが、それこそ下條さんの後測実験的な意味での、自分では意識できないような微少な時間幅での自分の変化、傾向、志向性というものを、捨象されてしまっている情報のなかから拾うことが、「dividual」な人間を支援するテクノロジーポジティヴな使い方のひとつなのではないかというイメージがあります。

大橋
そこを微分的に立ち上げていかないと、「近代」が用意したお約束のナラティヴ──国家、国民=個人、あるいは資本、などですかね、あるいはそれらに「回収不能な」ものという、これまた今や不毛な二項対立──へと変な仕方で還元・回収されてしまうリスクがある、ということですよね。

ドミニク
そうですね。複雑なものを何かに還元しなければいけない、ということではなくて、もっと複雑なものを複雑なものとして解像度を高めても社会は構成されうるのではないか、という期待があります。どう言語化するかにもよると思いますが、捨てられてしまっている情報を拾い集めて何とかするというと、なにかモッタイナイみたいな話にもなりますが、例えばType Traceの文字の級数が動的に変化していくという例でいうと、ある意味では捨象されてしまっている時間情報を評価して、ひとつの感覚的なヴァリューを提示しているわけです。もっとコミュニケーションの幅が増えることは、こうした例でも十分考えられる。

柳澤
捨てられた情報の再構成に力点が置かれると、あまりに人間的でセンチメンタルな営為のように思えて、違和感があったのですが、潜在的な可能性に光を当てて、複数のレイヤーで個体を見られるようにしていこうというという主張にはとても共感します。

平倉
全然まとめにならないかもしれませんが、ギブソン問題については私自身もけっこう言いたいことがあるんです。この10年間くらいゴダールの研究をやっていたのですが、そうするとやはり知覚は変わってきてしまいます。「マガーク効果」というよく知られた実験があって、「Ga」と発音する口の映像に「Ba」という音声を重ねると、「Da」という第3の音が聞こえるというものです。けれども私には絶対にそう聞こえなくて、明らかに口は「Ga」で音は「Ba」と見えるし、聞こえてしまう(笑)。ゴダールをずっと観ていたために、音と映像を分離して知覚することが経験の基本になってしまっているからだと思います。ギブソンの映画理論は、エイゼンシュテインのモンタージュやゴダールのジャンプカットのような変則的編集に対して、世界の実在性を損なうものとして否定的なのですが、ではモンタージュやジャンプカットによって実際に変容させられてしまった私自身のこの身体をどう扱えばいいのか。別の来歴をもつ身体が別の知覚をもつということを、どう考えればいいのか。そのときギブソンの理論とどうつきあえばいいのか、という問題が私にはうまく解消できない。そういう意味で、ギブソンの実在論とヴァレラの作動的閉鎖系の議論が、分裂したまま自分のなかに置かれているような状態に、私の場合はなっている。これについてはまだはっきりとした答えを得られていないので、2月への宿題としたいと思います。

榑沼
その点に関しては僕も分裂していますので、やはり2月に行なう第3回めに持ち越して考えなければいけない宿題です。 今日も長丁場の議論になりました。企画スタッフの皆さんにも感謝です。完全に予定時刻を過ぎていますので、ここで締めようと思います。次回第3回のラウンドテーブル「映像の生態学」では、再び柳澤さんに司会役をお願いすることになりました。映像・知覚における生態と倫理がふたたび主題になるならば、生態と倫理の「主体」の位相を問い続けることにもなるはずです。『種の起源』のダーウィンは、何よりも個体差(individual differences)に生体の変化の「起源」を見出しました。『生態学的視覚論』のギブソンによれば、生態学は例えば遺伝情報の配列ではなく、生きかた(ways of life)の水準を問う学問です。「生態学的批評性」「生態学的制作性」の「解像度」を上げるためにも、本日提起された「超個体」や「dividual」の問題、持続の分割・統合の問題とも突き合わせて考える必要があるはずです。本日はありがとうございました。

ドミニクプレゼンテーション
ラウンドテーブルトップ
柳沢プレゼンテーション