■「映画」か「映像」か──意識と無意識

宇川直宏
こんにちは。みなさん第1回「恵比寿映像祭」にようこそいらっしゃいました。本日は松本俊夫先生と僕とで、「映画」祭ではなくなぜ「映像」祭なのかということを手始めに、映像について考えていきたいと思います。先生は1960年代初頭に『映像の発見──アヴァンギャルドとドキュメンタリー』(三一書房、1963)という本を出されていますが、その当時「映像」という概念はいったいどのような位置づけがなされていたのでしょうか?

松本
「映像」という言葉は戦前に寺田寅彦などが使っていますが、現在の意味で使われだしたのは50年代の後半で、何人かが同時代的に使い始めました。僕がこの本を書き始めたのは58年です。「映像」はぴったり対応する外国語がない不思議な言葉で、「イマージュ・フォトグラフィック」や、「イマージュ・シネマトグラフィック」といったように限定した言い回しがなされます。「イマージュ(像)」という言葉だけでは、絵も、頭のなかで思い浮かべるイメージも含んでしまいますからね。

宇川
イマジネーションの原点ですね。

松本
はい。僕らが思い描く映像というのは、ある共通分母を示すには本当は広すぎるわけです。そういう意識が生まれたのは、テレビ放送が始まった50年代半ばぐらいでしょう。

宇川
そうですね。広く一般に情報を視覚で得る習慣がTVによって浸透してからですね。

松本
テレビが生まれてくることによって、自ずと映画とテレビ、それから写真も含め、いったいこれらは同じものなのか、違うものなのかといったような意識が働いてきたと思います。それぞれは違うのだけれども共通の括弧で括ることができる、というような意識で、それらを映像という概念で括るようになっていったわけです。外国の人たちにとってはとても便利な言葉だったので、後に「EIZO」という言葉をそのまま使う人も出てきました。

宇川
なるほど。「KARAOKE」か「SUKIYAKI」か「EIZO」か?

松本
そうですね。ですからそういう意味では非常に上手に、便利にある概念を括っているわけです。その後、当然ながらいろいろなメディアがさまざまなかたちで展開し、現在に至るわけですが、いまでは街に出れば至る所に映像がありますね。そうしたこともふまえると、それら多様な映像メディアのあり方が、前の時代に比して文化に格段の強い影響を及ぼしているのです。さらに言えば、人間のコミュニケーションのあり方や知覚のあり方、ものの考え方、感じ方など、いろいろな根本を変えてきているわけです。こうしたことを背景に、われわれは「映像とは何か」という問いを繰り返すことになるのです。

宇川
そして60年代以降に映像という言葉、概念が広まっていきました。『映像の発見』を書きはじめられた頃は、映像を劇映画と対抗するもの、物語から解放されるシークエンスとして捉えていらっしゃったわけですね。

松本
「映像とは何か」という問いは、ある意味で近代史的な考え方、つまり映像と映像でないものを隔てる固有の原理、映像というメディアの自律性を問うことになるのです。こうした原理主義的な純粋化の視点が初期の映像主義を成立させていたと思います。それゆえに、例えば物語性や俳優の個性も含めた登場人物の魅力といったいろいろな要素は本当に映像に不可欠の本質、核心部分たりうるのだろうかという探求がなされていった。物語や意味をできるだけ排除して映像の自立的な本質を立ち上げようとする探求です。後のポストモダン期に入ると、物語や意味作用の実験という新たな逆説的実験の視点も出てきましたが……。

宇川
なるほど。リュミエール兄弟が1894年にシネマトグラフを発明した段階では、映像と物語は隔てにくいものとしてありました。

松本
そうですね。いま振り返って言えば、言語を持った人間にとって物語ることとは本質的な表現欲望とコミュニケーションの体系なのであって、それを映像の外部に置くことはできないのです。つまり、ある物事に意味を与えることはすなわち物語化することでもある。「AはBである」という叙述形式自体、ある意味では物語なのです。ただ、「AはBである」という叙述形式の固定化が多くの場面で見られ、イマジネーションの類型化が飛翔力の衰弱を招いている、そのことを問題にしたわけです。

宇川
歴史についてもう少し伺いたいのですが、映画が発明されたとき、人々は映画をどのように迎えたのでしょうか。

松本
映画という未知なものに対しての反応には、何か想像を絶する不思議で魅惑的な新世界が生まれてきたという見方と、まったくくだらん一過性の見せ物にすぎないという見方との両方がありました。芸術家や文化人のなかには否定的な人もかなり多かったようです。

宇川
それはなぜでしょう。

松本
一言で言えば、文学者や美術家は自らの意識を徹頭徹尾作品に込めて創造しているのに対して、映像は機械の模写力に依存して作者の意識にない事象も取り込んでいて、それゆえ精神力も想像力も底の浅い表象として見なされたということです。 ところが、そこにとてつもなく大事なものが生まれてきたという意識を持った人は、人間の意識から自立して存在し、つねに事後的に観ることになる映像からなんらかの新しい意識が立ち上がるということに、人類史的にも未開のメディアの固有性を見たのでしょう。カメラという機械、あるいはレンズという目は、人間が築いてきたそれまでの文化と違った何かを決定的にもたらすだろうという直感があったわけです。

宇川
フレームに写り込んでいるのは、無意識性あるいは潜在的な欲望と言ってもよいなにものかでしょうか。

松本
そう言うこともできるでしょう。映像によって人間の理性の管理下に置かれないものが引き出される。そしてそこにも二重の意味があって、ひとつはジガ・ヴェルトフが気づいたように、レンズが意識の外の世界を拾ってきてしまうということ、もうひとつは、シュルレアリストたちが気づいたように、映画が夢と同様、意識下の欲望をふんだんにはらんでいるということ。この外と内のロゴスの裂け目がサイフォンのようにつながっているんじゃないか、というのが僕の見方です。

宇川
1920年代に花開いた実験映像をめぐる状況ですよね。

松本
1920年代に入るあたりからすでに、映画というメディアがいわば論理的思考の脈絡を超え、無意識の世界、夢の世界を体現すると考えられたのです。すでに先行していた精神分析、とくにフロイトの知見も得て二重の可能性を同時に取り込み、最後には映画に大きな可能性を見たと言えるでしょう。

■「アヴァンギャルド」かつ「ドキュメンタリー」──映像の本質

宇川
『映像の発見』のサブタイトルは「アヴァンギャルドとドキュメンタリー」でした。一見「アヴァンギャルド」と「ドキュメンタリー」は背反する印象を与えますが、一対として存在可能であるというところにじつは映像の本質があるのではないかと思うのです。それはまた、さきほどの欲望と外在世界と捉え返すこともできる。

松本
ですから、その両極が対立すると同時に同一化するあり方に、映像の本質を発見する予感があったのです。

宇川
先生は実験映画を撮ると同時にドキュメンタリーを撮られていますよね。まさに本のサブタイトルを実践されていました。しかし20年代当時はアヴァンギャルドという概念を複数の人と共有できる時代ではなく、共有されるまでには少なくとも10年くらいの時間がかかりました。

松本
そうですね。アヴァンギャルドの展開は第二次世界大戦によって挫折するのですが、そこに至るまでの十数年は、映画に限らず、あらゆるジャンルを通してアヴァンギャルドの芸術思想が次々に新しい切り口をつくっていった時代です。そして、アヴァンギャルドの展開によって開かれた世界が何に対立する世界なのかということが、それなりに見えてきた時代だったと思うのです。
僕らは生まれてから気がつかないうちに、習慣化したものの見方、感じ方、価値観など、さまざまな固着化したパラダイムや制度を通して世界に接している。そういう枠に縛られた不自由さを自覚してゆくと同時に、「世界はこんなふうにも見えるんだ」という、脱制度化した新鮮なものの見方を切り開いていくことが、言ってみればアヴァンギャルドの仕事だったわけです。

宇川
先生の初期のお仕事を拝見しましたが、アートとしての実験だけではなく、企業資本のなかでアヴァンギャルドを探求されていた歴史もありますよね。例えば《銀輪》(1955年/35mmフィルム/10分)のように。これは現代、僕らがTVCMやミユージック・クリップをつくりながら、並行で、今回の展覧会のように現代美術の枠のなかで、ホワイトキューブで発表する作品を制作してゆくクリエイティヴと近い気がします。

松本
そうですね。それは、映画というメディアが、絵を描くことや小説を書くことみたいに、とりあえずひとりでできるメディアとは異なるということとも関係があります。デジタルカメラなどないフィルムの時代ですから、カメラを手に入れ、撮影をし、現像して編集するという、お金もかかるたいへん近寄りがたいメディアだったわけです。そうしたことを背景にして、アヴァンギャルド映画の歴史がない日本で、チャンスがあればどんな切り口からでも試みていくということを考えていました。
《銀輪》は「実験工房」とのコラボレーションで、まだ有名になる前の武満徹さんが音楽を手がけていますし、造形作家の山口勝弘さんが美術をしてくれています。

宇川
《白い長い線の記録》(1960年/35mmフィルム、白黒/13分)も企業資本のもとでつくられた作品ですよね。

松本
はい。当時の実験映画は16mmで撮られたものが多かったのですが、この作品は映画館で上映できる35mmフィルムで、しかもシネマスコープという異色のものでした。1960年だったと思うのですが、「実験映画を観る会」という会をつくり、虎ノ門共済会館ホールで第1回目の上映会をやりました。外国の作品もいろいろと集めて上映しました。

宇川
ぜひ行きたかったですね……。まだ生まれていなかったですが(笑)ちなみに当時の海外からの上映作品はどのようなものですか?

松本
ロマン・ポランスキーの《タンスと二人の男》(1958)やポーランドのヤン・レニツァの《家》(1958)などです。日本からみると、やはりヨーロッパ・アヴァンギャルドの歴史の厚みを感じさせる実験映画でした。

宇川
アメリカで実験映画が勃興する前のことですか?

松本
アメリカの実験映画が始まったのは40年代からですが、実物の作品が日本に入ってくるのは主として60年代半ば以降のことです。しかし、新鮮な刺激が継続して入ってくることで、日本にも徐々に「こういう作品なら自分も撮りたい」という人が出てきたわけです。

宇川
なるほど。8mm機材の家電化で小型映画という言葉が台頭し始めた時代ですね。その後、上映会として重要になってくるのは、やはり草月アートセンターでの「世界前衛映画祭」から「アンダーグラウンドシネマ」、「草月実験映画祭」への流れでしょうか。ノーマン・マクラレンの作品が最初に上映されたのも草月アートセンターですよね。

松本
マクラレンのアニメーションに関しては、東和が50年代の半ばに紹介しています。

宇川
栗津潔さんも久里洋二さんもマクラレンに強く影響されたと聞いています。

松本
ほかのジャンルの人たちにも「こんな表現があるのか」という刺激を与えてきました。もちろん僕にも、「実験工房」にも影響を与えたと思います。マクラレンの場合は、非常に例外的なことでしょうけれども、《ブリンキティ・ブランク》(1955)というカメラを使わずにつくった短編作品は劇場で公開されたのです。カメラを使わないというのは、つまりフィルムに傷をつけたり、フィルムに直接色を塗るということです。音もサウンドトラックに傷をつけてつくるので、楽器や声による音楽という概念を飛び越えてしまったのです。ですから、ここで行なわれたこともミュージック・コンクレートの一種と言ってよいかもしれません。