写真からは、音が、声が伝わってこない。振ったときのぺらぺら、丸めたときのくしゃくしゃという音で、ときにざわめくだけである。写されたものに触れようにも、つるつるの紙の表面でしかない。そしてそれじたい、まぎれもない物質として、やがて色褪せてゆく、ひび割れてゆく……。
まぎれもない物質でありながら、そこに「映る」実体のない幽霊のような〈像〉としての存在に、19世紀、はじめて写真を手にした人たちは仰天したはずである。はずである、というのは、写真の経験が現在のわたしたちにあまりに深く浸潤していて、写真の経験を知らずにいた「主体」の感覚をもはや再生しようがないからである。
見えているのに音がともなわない光景、それは真空の世界である。撮られた世界、そこに音が不在であることでいったい何が断ち切られるのか。
離人症という困難が、外界の風景が写真のように見えるという経験によって語られることがある。写真の存在がそういう、現実性喪失の象徴のように語られるのは、そこに現実性を支えるさまざまな感覚の交差路が毀損されているからである。リアルの係数が壊れていると感じられるからである。
感覚の交差が封じられたとき、どんなことが起こるのか。ひとつの身近な例をあげてみよう。卓上電話を受けたとき、ひとはなんとなく手持ちぶさたになって、手元のメモ用紙に意味のないいたずら書きをはじめる。意味のない単純な図形であることが多いようだが、長電話になるとそれがやがてどんどん増殖してゆく。筆圧もだんだん強くなり、最後は用紙一面変な図で埋まる……。
電話しているときは聴覚神経が研ぎ澄まされる。このようにある限られた感覚だけが急激に加熱されると、他の諸感覚が相対的に冷却された分を埋め合わせるかのようにもぞもぞ蠢きだす。感覚刺激のあいだの不均衡が強烈ではなはだしいと、一種の麻痺状態に陥った感覚が、それまでの平衡状態をなんとか回復しようとして、ある種の埋め合わせを対抗的に行ないはじめる。それがさきほどの描図であろう。その埋め合わせが勢いあまって、幻覚を形成することもあるという。
このことが、写真をじっと見ているときにも起こっているようにおもう。音の不在が、聴覚の急激な加熱を招き寄せるというようなことが。しかも、カラー写真とくらべ感覚情報がより絞り込まれたモノクロ写真のほうが、音の喚び込みは、逆比例していっそう強まるようにおもう。
それにしてもそこに喚び込まれるのはどういう音なのだろう。そこにある顔の画像を見て、ふとそのひとの声が音ならぬ音で甦るということもあるだろう。「わたしを聴いてください、わたしにふれてください」というような。あるいは、懐かしい公園の写真を見て、枝のそよぎ、鳥のさえずりの音が甦ってくることがあるかもしれない。けれどもふつうは、そんな人や物の声音が画像を裏打ちするかのように響いてくるということはあまり起こらない。幻聴が、欠損した音の、聴覚による過剰な埋め合わせによるとすれば、ここで起こっているのはむしろ埋め合わせの過少、あるいは兆しといったものである。おそらく。主体の散乱? あるいは、「綜合」が解除されてばらばらに散乱した感覚が交差路を索めてうろうろしている状態と言ってもいいだろうか。
昨年亡くなった哲学者の坂部恵さんは、晩年、「失読症」を患われていた。じぶんがいまさっき書いた文字も読めないので、当然書くこともできなくなる。ありふれた動詞を取り違える、時間のスケールが狂う、音楽を聴いても和声が壊れる……。そんな症状について語られたあと、この症状はじつはもっと大きな欠損を埋めるためにこそ生じているのかもしれないとつぶやかれた。「もっと大きな欠損を埋めるために」? 写真という存在も、おなじように、より深い音次元を取り戻すための感覚削除としてあると、坂部さんのこの話から考えてみたくなる。