第4回恵比寿映像祭

もはや言うまでもないが「映像の世紀」であった20世紀を経て、映像は今なお日々大量につくり出され、記録されている。ここで、2000年代の動向も踏まえれば「Youtube」「Ustream」などいわゆるソーシャルメディアの登場が映像の氾濫を助長し、文字通りさまざまな人々によって映像は生産され続けている。こうした動向の一方で、私たちは今、とりわけリーマンショック以降アメリカ型資本主義の衰退を目にしているのだが、ポスト消費社会とも言えるような現況のなかで映像にいかなる様相をみて取ることができるのだろうか。

たとえば、ヴァルター・ベンヤミンは「生産者としての〈作者〉」(1934)のなかで、社会的な諸関係が生産関係によって条件づけられていることを前提に「作品が時代の生産関係のなかでどういう立場にあるのか」について問うている[*1]。その上で、ブレヒトを引き合いに「生産装置のたんなる供給と生産装置の変革とのあいだにある決定的な相違」[*2]といった指摘がなされているが、レンガー=パッチュの新即物主義の写真に対し、ジョン・ハートフィールドのフォトモンタージュが対置されるかたちで、写真に革命的な使用価値を賦与する生産装置の変革の意義が唱えられている。一方で、マックス・ホルクハイマーとテオドール・アドルノは『啓蒙の弁証法』(1947)のなかで、ベンヤミンの「複製技術時代の芸術作品」(1936)に応答するかたちで、複製技術による社会変革とは異なる点を指摘している。ここでは「全世界が文化産業のフィルターをつうじて統率される」[*3]あるいは「消費者の欲求は文化産業によって一括して処理されるようになる」[*4]というように、資本主義における文化産業が批判されつつ、市場操作される芸術の一面があらわにされている。

第4回恵比寿映像祭

カロリン・ツニッス&ブラム・スナイダース Sitd《RE:》2010
Photo Courtesy of Tokyo Metropolitan Museum of Photography

こうしたベンヤミン/アドルノ、ホルクハイマーによる社会変革/文化産業の指摘を踏まえ、今日映像について問わなければならないのは、私たちの生産関係が大量生産大量消費から部分的に大衆のニーズに合わせた多品種少量生産へと移行するなかで、さらに言えば、ドゥルーズの言葉を借りアントニオ・ネグリ、マイケル・ハートが言及するような「規律社会から管理社会への移行」が経験されうる状況のなかで、「装置」としての側面をいかにとらえるかという点にあるではないだろうか。加えてヘーゲルの「疎外(Entfremdung)」という概念のもと、マルクスが「労働の生産物が、労働にとって疎遠な存在として、生産者から独立した力として登場してくる」[*5]と分析したように、映像もまた、生産者から独立した力を持ちうる状況がみられるなかで、再生産される映像をいかに実践的なものとして価値づけることができるかという点にあるのではないだろうか。

そもそも映像の形式に照らせば、「記録/再生」「撮影/編集」という区分を原理的に孕んでいる映像は、「装置」によって必然的に再生産される契機を持ち合わせている。また、こうした映像の再生産とも言うべき事態は、「保存/使用」という観点において映像アーカイヴの問題にも敷衍される。よって、今日において「映像のフィジカル」という問いは、実/虚あるいはドキュメント/フィクションといった認識論的二項対立を超え、映像が「装置」を介していかに「存在(記録/再生)」しうるか、あるいは「保存/使用」しうるかといった局面において少なからず議論される必要があるように思う。

ここで、ようやく本展について触れることができるのだが、東日本大震災を機に「物理的なインフラと、人の介在」または「技術や機材、あるいは技能の物理的な違い」など「「いかに」映像が生み出され感受されるか」[*6]といった側面に目を向けた今回の映像祭では、まさしく先にあげたような問いかけが「展示/上映/シンポジウム[*7]」を介して包括的になされていた。実際に、幾つかの作品には「装置」に対する志向がみて取られた。たとえば、マライケ・ファン・ヴァルメルダムの《カップル》やユェン・グァンミンの《消えゆく風景―通過II》には、ワン・ショット=ワン・シークエンスによるカメラワーク自体が装置化されることで、瞑想的な世界像が映し出されていた。また、閃光による矩形のイメージが反復して映し出されるヴァルメルダムの《パッセージ》や、蛍光塗料が塗られた壁面に映像を投射することで「光のドローイング」のような事象をつくり出していたユリウス・フォン・ビスマルクの《ザ・スペース・ビヨンド・ミー》には、映像を映し出す際に依存せざるをえない再生装置に対し、それ自体を組み入れることで、映像を自立させようとする態度が内包されているように思われた。さらに、体験者の瞳孔位置をリアルタイムに検出し、視線のスクロールによって入れ子状の画面移動を果たすエキソニモの《The EyeWalker》には、もともと筋萎縮性側索硬化症になったグラフィティアーティスト・TEMP1が絵を描くために開発されたオープンソースソフトウェアを改変し、実用的なプログラミングがなされているが、同時に虹彩認識システムによって個人が認識されるといった、今日の管理社会における「装置」の両義性が垣間みられた。

第4回恵比寿映像祭

ユリウス・フォン・ビスマルク《ザ・スペース・ビヨンド・ミー》2010
Photo Courtesy of Tokyo Metropolitan Museum of Photography

一方で、本映像祭カタログに収録されている諏訪敦彦と長谷正人の議論に倣えば、たとえば「音と映像がシンクロしていることで保障される世界というのは、本当は危うい(諏訪)」といった発言にあるように「意味するもの(シニフィアン)と意味されるもの(シニフィエ)」のずれによって立ち現れる、「何の意味も付与されていない(長谷)」ノイズに映像のフィジカルな様相が見出されている[*8]。実際、数多の映画から抜き取られた3664コマのフレームまたはNASAのスペースシャトルに設置された映像記録をつなぎ合わせたヨハン・ルーフの作品や、レギュラー8、スーパー8、16ミリ、35ミリなど異なるフィルムを物質的にモンタージュし、さらに16ミリフィルムに密着焼きした伊藤隆介の《Songs(版#23)》には、文字通り視覚的かつ聴覚的に「何の意味も付与されていない」ノイズが現出していた。

スッティラット・スパパリンヤの《シューティング・スターズ》は、こうしたノイズとしての様相をもっとも効果的に浮かびあがらせていたように思う。チェンマイからバンコクへの列車の移動の風景を、カメラ自体を回転させることで上から下へと落ちて行く光の点滅へと変換したこの作品は、移ろい行く光の軌跡に魅了される人間の欲求をあらわにしつつ、同時に銃声や落とした薬莢の音を重ね合わせることで「音と映像のシンクロ」を引き裂く。政治的メッセージを含意しながらも、国家という「大きな物語」に収斂されることなく、しかしながら自らの置かれた個別の歴史性に向き合う態度は、歴史的な記憶喪失に陥ったかのようなシミュレーショニズム、あるいは換喩的な想像力に耽溺するようなマイクロポップとは異なる局面に私たちを連れ出す。こうした新しい映像の力とも言うべき様相は、ヨハネスブルクの交通事故とそこに群がる人々の姿の場面などを木炭の重ね(消し)描きによって映し出したウィリアム・ケントリッジのアニメーションや、ニューヨークの外国人街の静止画を分解し再構成したヂョン・ヨンドゥの《シックス・ポインツ》、あるいは「ディープストラクチャー」のなかで上映された韓国現代美術の作家による各々の作品にも前景化していた。

第4回恵比寿映像祭

ウィリアム・ケントリッジ《アザー・フェイシズ》2011
Photo Courtesy of Tokyo Metropolitan Museum of Photography

映像はそもそも、対象や運動を分析するための装置であった写真から生み出された技術である。1953年に発足した東京シネマの映像をみても《パルスの世界 ―エレクトロニクスと生体と―》《ミクロの世界 ―結核菌を追って―》をはじめ、当時の先端技術である顕微鏡撮影や微速度撮影を駆使し、世界を微分化するような眼差しをもっていたことがうかがえる。《ビール誕生》《電子の技術 ―テレビジョンー》では、同じような眼差しが高度成長期へと向かう工場の生産ラインに向けられることにより、大量生産の体系そのものが分析的に映し出されている。こうした科学映画のような様式は今日でもみられるが、一方で生産関係との関係で言えば、映像はその後、消費社会において別の方向への展開をみせる。たとえば、フレドリック・ジェイムソンは「ポストモダニズムと消費社会」(1983)のなかで「ノスタルジア映画」という形式に目を向けている。ここでは映画《スター・ウォーズ》が例示されているが、同作が子供や若者たちにとってストレートに物語が受容される一方、大人たちに対し過去の時代のテレビ番組のもっていた感じや形態などの感触を喚起させる点において「ノスタルジックな欲望を満たす」ものとしてとらえられている[*9]。ジェイムソンは、こうした新しいスタイルが発明し尽くされ、スタイルの革新がもはや不可能になってしまった事態を「パスティーシュ」と呼び、消費社会における病理の兆候とみて取っている。

第4回恵比寿映像祭

東京シネマ《電子の技術―テレビジョン―》1961
Photo Courtesy of Tokyo Metropolitan Museum of Photography

さらに、後期資本主義に登場してきたもうひとつの特徴として「分裂病」があげられている。先にあげた「意味するもの(シニフィアン)と意味されるもの(シニフィエ)」との関連で言えば、シニフィアンとシニフィエが一対一の対応関係に基づいているわけではないとした上で、ジェイムソンは分裂病を「シニフィアン相互間の関係の破壊」ととらえている[*10]。私たちが、映像のフィジカルを問う上で注視しなければならないのは「時間的連続性が破壊されると、現在の経験が力強く圧倒的に鮮明化し、「物質的な」ものとなる」あるいは「シニフィアンが孤立させられることによって、それはいっそう物質的なものになる」[*11]といった指摘にある。「過去を保持する力を少しずつ失い始め、永遠の現在、恒久的な変化において存在する」[*12]消費社会のなかで、映像は、浮遊する物質的なシニフィアンのような様相を呈する。こうした指摘は、サラ・モリスの《線上の各点》を見る限りにおいて、今なお有用なものであるように思う。ガラスのカーテンウォールに覆われ、超高層ビルの原型とも言われる《シーグラムビル》を媒介に、ミース・ファン・デル・ローエによる《ファンズワース邸》とフィリップ・ジョンソンによる《ガラスの家》を接続させた本作では、近代合理主義のもとで増殖する資本と重ね合わせられ、見る者を歴史的記憶喪失に陥らせるような映像による物質的な過剰さがあらわになっている。ここには、高輝度高精細プロジェクターと音響設備を併せた大型スクリーンによる展示形式を含め、「装置」によって入れ子状に拡大・拡張され再生産される映像としての一面が如実に表れている。

第4回恵比寿映像祭

サラ・モリス《線上の各点》2010
Photo Courtesy of Tokyo Metropolitan Museum of Photography

サラ・モリスの映像に対し、大木裕之の映像が並置されていたことは、ポスト消費社会における映像の問題を考える上で、重要さを持ち合わせていた。果たして、これらの映像の集積は、いかなるものとしてとらえうるのだろうか。ここでは、一点「中断」に目を向けたい。大木自身によれば、「中断」は「編集」ではなくむしろ「撮影」の段階になされているが[*13]、奇しくもジョナス・メカスの映画《スリープレス・ナイツ・ストーリーズ》にも同じような「中断」がみられた。こうした「中断」は、マイクロポップの想像力とも趣を異にしている。むしろ冒頭のベンヤミンによれば、ブレヒトの叙事演劇による「筋の中断」に近い。ベンヤミンはこうした「中断」を「状況の発見」とし、「読者あるいは観客から恊働者を作り出す」装置のモデルとしてとらえている[*14]。ただし、大木あるいはメカスの映像は、必ずしも「状況の発見」として機能しているわけではない。むしろ「状況の弛緩」あるいは「状況の酩酊」とも言えるような、映像に内在している別の潜在性を浮かびあがらせ、「作家=絶対者」という形式で映像に依存してきた私たちを、それとは異なるかたちで映像の再生産へと向かわせる。一方で最後に、濱口竜介と酒井耕による映画《なみのおと》にも触れておく必要があるだろう。東日本大震災あるいは震災後の映像が数多記録されているなかで、人々の「口承」の記録によって制作された本作は、インタヴューという形式を介し、集団的な実践として具体的に寄与するような映像の力を持ち合わせていた。

第4回恵比寿映像祭

大木裕之《TRAIN-AN(庵)》2012
Photo Courtesy of Tokyo Metropolitan Museum of Photography

今回の映像祭には、これまで考察してきたように、消費社会に内在しながらもポスト消費社会へと移行するなかで新たな局面をみせる映像の姿があらわになっていた。いずれにせよ、映像は資本のように再生産される。そのことを踏まえ、いかに用いるか。問題はここにある。



[*1]ヴァルター・ベンヤミン『ベンヤミン・コレクション5 思考のスペクトル』浅井健二郎編訳(岡本和子訳)、ちくま学芸文庫、2010年、389—390頁
[*2]同前、401頁
[*3]ホクルハイマー、アドルノ『啓蒙の弁証法―哲学的断想』徳永恂訳、岩波文庫、2007年、262頁
[*4]同前、296頁
[*5]マルクス『経済学・哲学草稿』長谷川宏訳、光文社古典新訳文庫、2010年、92頁
[*6]岡村恵子「映像のフィジカル」『第4回恵比寿映像祭 映像のフィジカル』カタログ所収、東京都写真美術館、2012年、8—9頁
[*7]レベッカ・クレマン、ジェド・ラップフォーゲル、松本圭二、田坂博子(司会)によるシンポジウム「映像アーカイヴの現在01: フィルム、ヴィデオ、アートの交差点」では、映像アーカイヴにおける再生装置の問題(「デジタルジレンマ」)が指摘され、こうした観点のもとヴィデオからフィルムへ変換する事例(松本)も紹介された。
[*8]諏訪敦彦、長谷正人「映像のフィジカル―飼いならせない野生の映像のために」『第4回恵比寿映像祭 映像のフィジカル』カタログ所収、東京都写真美術館、2012年、12—21頁
[*9]フレドリック・ジェイムソン「ポストモダニズムと消費社会」ハル・フォスター編『反美学―ポストモダンの諸相 』所収、室井尚・吉岡洋訳、剄草書房、1987年、209—210頁
[*10]同前、216頁
[*11]同前、218—219頁
[*12]同前、230頁
[*13]本映像祭上映プログラム「世界に悪酔い! 大木裕之特集」での上映後のトークを参照。
[*14]ベンヤミン、前掲書、410—412頁