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2009年2月2日

Filed under: 未分類,未分類 — admin @ 10:15 PM

異なる身体、異なるシステム

河本
こんにちは。私は以前からとてもラグビーが好きで、冬の秩父宮競技場にも見に行っています。

平尾
よろしくお願いします。そうですか、きっかけは何ですか?

河本
いやいや、平尾さんですよ。新日鉄釜石が連覇を続けていた頃からラグビーは見ていましたが、年中行事のように見るようになったのは平尾さんがスーパースターになっていく時期です。もちろん1985年の同志社大学と釜石の日本選手権も見ているのです。当時は1月15日の日本選手権が終わらないと僕の正月は終わらない。仕事始めはその後だと勝手に決めて、毎年ずっと観戦していたのです。厳密に言えば、京都市立伏見工業高校時代の試合はよく知らないのですが、その後の同志社大学時代の平尾さんはずっと観ていました。あの頃の同志社には学生ですでにナショナルチームに入っていた選手が3名もいて、えらく強いなと、だれもが思っていました。当時はまだ僕にとっては大八木淳史さんがスーパースターで、フォワードで相手選手を2、3名引きずって突破し、ラックを作る。そこに人数的に余力のできたバックスがボールを支配してつないでいくというような見方しかできていないのです。要するにもっとも派手なところしか見えていなのです。ところが試合後のインタヴューで大八木さんが「平尾がこうやれって言うからこうやっとるんだ」という話し方をする。そのため平尾さんが全部組み立てているんだなと思っていました。テレビだとそのあたりが見えにくいのです。テレビの場合、派手な突破や派手な当たりしかしか撮らないので、司令塔のゲーム作りがうまく見えなかったのです。その後の神戸製鋼時代もずっと観ていましたが、いつ頃だったかあまりラグビーを観なくなった時期があります。ここ10年くらいはサッカーのほうが面白くてね。
今週の日曜日(2008年12月7日)の明治大学と早稲田大学の試合で、久しぶりに、精確には8年ぶりか9年ぶりに明治が早稲田に勝ちました。あの時にわかったのですが、モールの引き倒しができるようになったので、明治は本来困るはずですよね。モールの場合、集団でボールを抱え込むようにして立ったまま前進していきます。あれを止めるのはどのチームにとっても大変です。ラグビーの場合、ボールに対して後ろから働きかけなければならないので、少しでも横から攻めた形になると、ただちに反則になります。このモールを得意としていたのが明治です。ところがモールを手前に引き倒して崩してもよいというルール改訂が行なわれて、明治は得意技のモールが使えなくなりました。その結果シーズン全体の明治の成績は芳しいものではなかったようです。
あの規則ができたために、8人で組むような大型のモールはやっていませんでした。ところがそれを3、4人の小さなモールでやっている。2つの小さな集団を作り、ひとつの小さな集団が引き倒されると、次の集団がボールを拾い上げて新規のモール状態を作っていく。モールを小粒のパーツにして、引き倒されても継続できるようなモールの形が少しできていた印象でした。長い距離を大型のモールで進むのはもう無理であっても、ちょっと違う形ならば、継続できるのかなという感じを受けました。結局明治は運もあって24対22で早稲田に勝ったのですが、要するに僕の楽しみはそういったことを観ることなんです。

平尾
なるほど。よく観ていらっしゃいますね。

河本
僕はシステム論を専門にしていまして、これまでいろいろな開発をしてきました。なかなか難しい理論でお話すると非常に長くなるのですが、それを考えていた時の最も典型的なイメージが、平尾さんのラグビーと中原誠十六世名人の将棋でした。ところが将棋の世界ではその後羽生善治が登場し、将棋のシステム自体が完全にヴァージョン・アップしたのです。ああ、こういうことかという印象を受け、それで対談集『システムの思想──オートポイエーシス・プラス』(東京書籍、2002)を作りました。あの本にも企画段階では、平尾さんとの対談が予定されていたのです。
例えば南米のサッカー、とりわけブラジルのロナウジーニョのボール処理の仕方を見ていると、ある程度体の重心を下げて、股関節の柔らかさを使っていることがわかります。股関節が柔らかいから重心を下げても足元で処理ができる。ところがドイツのサッカーはまったく違います。彼らはものすごく身長が高くて図体がでかいのだけれども、足元が上手い。体を上げた状態で足に自由度を持たせるためには、上でバランスを取らないといけないですね。するとどうも、ドイツ・サッカーの基本は肩幅にあるらしい。肩幅の回転やバランス制御を使って、足下を上手くコントロールしている。ドイツ・サッカーの体の活かし方と、南米サッカーの体の活かし方には相当大きな差がある。それぞれに応じたシステムの作り方をしているのだと思うのです。ゲームですから、最後はどちらがたくさん点を採るかで勝ち負けは決まるわけですが、それぞれに異なる身体の機能を使ってシステムを成立させている。それに比べると、ラグビーはやはりまだ足が速いとか、遠くまでボールを蹴ることができるといった、量的な技能によって成立している部分が大きいと思うのですが、それよりももう一段階細かい身体特性を活かせるような領域が、もうそろそろ出てくるんじゃないかという感じがしているのです。

身体的優位性と技術の世界

平尾
そうですね。どちらかというとサッカーのほうが器用さが必要です。かといって、ラグビーがそちらに近づいていくのかというと、それはちょっとわからない。これと関係してくるのがルール性の問題だと思うんです。ルール性からいうと、ラグビーはボールを持って走ってよいけれども、サッカーではそれができないわけで、ボールに触れるその一瞬の感触、扱い方においては、力というよりもまず技術が優先されますね。ましてラグビーでは身体が当たってもよいわけですから、ゲームのなかで身体的優位性がものすごく大きな部分を占めてくるとは思います。ただそれを克服していくためには、今度は器用さとか技術、巧みの世界みたいなものが必要になってきます。ボールを持って何歩走ってもよいというルール性、そしてコンタクト・プレーの要因性から見れば、日本のように他国と比べて体も大きくないし、スピードもあまりないチームでは、身体的優位性以外の部分を含んだ戦略が際立ってこないと、なかなか勝てないと思います。

河本
プレーヤーをはじめ現場の方々ははるかに悔しい思いをされていると思いますが、ラグビーの国際試合は観ていて本当に悔しい思いをします。試合をかたちづくる要素には、個々の選手の体力、走力、脚力、体重はもちろん、蹴った球の距離、正確さ等々、実にいろいろなことがあると思うのですが、こと国際試合では、大きな体力差そのものを見ている者も思い知らされるわけです。結局のところ体力差が絶対的にあって、それを埋めるには基礎的な能力がある人をかき集めてこなければならないと落ち着いてしまうところがある。でも待てよ、そう落ち着いてしまう前に、もっとたくさんの選択肢が出てこないのかな、という感じがいつもするんですね。

平尾
先生のおっしゃるようになったほうが、ゲーム性の面白さが発揮できるとは思います。ただ、今どこが強いチームかと問われると、基本的にはやはり身体的優位性が強いチームです。そのバランスを補うための戦略性、戦術性がゲームにおいてどれだけのウェイトを占めているかというと、どうなんでしょう。例えばこの間(12月6日)、関東大学対抗戦で帝京大学が優勝しましたけれど、やはり身体的優位性が高いですよね。それがラグビーのなかなか難しいところです。昔と比べて体もだいぶ大きくなってきたということもありますし、まして今や外国人選手をたくさん使いますよね。それが海外チームとの溝を埋めているところがある。ただ日本代表チームの話になった時に、どこまで外国人枠の使用が社会的に容認されるのかということも含めて、溝をどう埋めていくのかをめぐっては、われわれ自身の視点を持っていかなければならないと思います。ただ、繰り返しになりますが、身体的優位性、つまり体の大きさ、持久力というよりもスピードと筋力と体力、これがあるとだいぶ違います。

Filed under: 未分類,未分類 — admin @ 8:58 PM

選択肢の広さと技術力

河本
一方平尾さんも詳しい将棋について考えますと、ここ2、3年顕著な傾向ですが、ものすごい早い段階、つまり3手目くらいからセオリーにない手を指すスタイルが見られるようになってきました。角交換を自分から行なうように、戦局を変えにいくわけですから、1手損なのです。後手でも自分から角交換に行くようです。自分から角交換に行けば1手損になります。だから既存のセオリーではやってはいけないことのひとつです。ところが後手が、2手損を承知で仕掛けていくこともある。あえてするこの2手損から何を得ているのかというと、それは先々の選択肢の広さなのだと思うのです。それがすごい。要するに駒は立ち遅れ、陣形が整わない状態が長く続く。勝負では致命傷に見えるのです。しかし選択肢を増やすことで、それ以降に組み立てのための組織力の可能性を持つことになる。将棋は今そういう局面にきていると思うのです。昔は、四つに組み合って、やがて駒がぶつかって、やがて夕方ぐらいから本気になって局面を読んでいくか、というようなものでした。ところが最近では3手目くらいから本気になって最後までを読むらしいのです。どうもこの選択肢の広さみたいなものに価値がシフトしはじめたという印象を受けています。出発点から一挙に選択肢を広げてしまって、そこからどう動かしていくかを考えていくシステムのようなのです。

平尾
選択肢というのは非常にいい切り口ですよね。僕はどちらかというと選択肢を増やしたいほうなんです。ところが、日本のゲームは、選択肢はあまり増やさずに極力狭い選択肢のなかでいかに確実にやっていくかという考え方が支配的ですよね。選択肢を狭めるほど確実な結果を生みます。ですから、精度を求めれば求めるほど、選択肢を広げることが求められなくなる。でも、ラグビーでも、サッカーでも、将棋でも、ゲームの本質からいうならば、基本的には相手との距離が極限的に縮まった時にどれだけ選択肢を持っているかということが重要で、それはつまり技術力の話だと思うんです。それができない場合に、相手の手が読めないで混乱したり、的が絞れずに守りきれないという結果になる。例えば今僕がボールを持っていて、河本先生との距離が5mあるとします。この時に僕はパスをする選択肢、蹴る選択肢、持って走る選択肢、コンタクトする選択肢を持っている。良いプレーヤーというのは、距離が近づいても選択肢を保てるプレーヤーなんですよ。悪いプレーヤーは選択肢を早く狭めたがります。次の局面で状況が変わろうが、その前に決めたことを実行するんですよ。対応力がない。しかし別の言い方をすれば、そうすることでコンタクトする時にはスピードもついているし気持ちも入っているから、非常に効果的ですよね。ところがですよ、高度化したゲームにおいては、相手も次の手に早く気づきますから、それに対する身構えをするんですよ。ゲームはどんどん高度化します。その時に求められるのが要するに技術だと思っています。

河本
訓練すればできることですか?

平尾
訓練はできますよ。ただし、選択肢を保つためには、具体的に体にスピードがないとだめです。瞬発力がないのであれば予め判断しておかないといけませんが、それでは高度なプレーができないのです。やはり根本的には身体的能力が関係する問題です。でも、いろいろな状況設定下でトレーニングすれば判断力は身につきますよ。こういう系統のトレーニングが日本人は下手なんです。

河本
それには何か理由があるのでしょうか?

平尾
まずひとつは、失敗に対する過度な恥の心がある。より創造的なものを生むよりも、失敗してはいけないという考え方がすべてにおいてあると思います。確実な結果を出すために、確実な用意をし、確実な判断をする。だから反復練習は大好きだけれども、シミュレーション型の練習はあまり得意ではない。技術論の代わりに型論が幅を利かせている。型の修得のためには反復練習はもっとも効果的ですが、大事なのはどのような状況でそれをするかなのです。ボールを遠くまで蹴るプレーヤーはいっぱいいますが、そのボールを「いつ」「どこ」に「どれくらい」の力で蹴るかというのが判断力。この2つを持たないと技術にはならない。

河本
例えばメジャー・リーグの中継を見ていて、「よくこんな格好でホームランが打てるな」と感じるプレーヤーがいっぱいいますよね。あるいは「よくこんな格好で投げているな」と。つまり、日本のバッター、ピッチャーはものすごく型がきれいなんですね。その典型がいわゆるきれいな「巨人野球」をする巨人のプレーヤーですが、強制しないとああはならないはずです。そもそも、自分の力が一番出やすい型が皆同じであるはずがない。それに沿ったシナリオづくりや人材の育て方が不足しているという感じを受けます。

個の力が出やすいシステム

平尾
そうですね。野球で言えば、ボールを打つということが本質ならば打ち方はさまざまであっていいはずです。個々に腕の長さが違ったり、腕力が違うことによって、自ずと変わってきます。けれども、そういうことがあまり考えられていない。僕はいつも疑問に思うのですが、日本の打撃練習において素振りはとても重要ですよね。ボールを打っていないのに打撃練習をしているというのが逆にすごいなと思う。だから日本人の素振りはきれいですよ。無駄がないし、合理的な軌道を描いているかもしれません。息の整え方に至っては武道的ですらありますよね。ところが、外国の選手は打ち方がさまざまです。打つという本質を外さずに、それぞれの一番良い方法を見つけているからです。この違いは教育をはじめ、組織論などの根本的な部分に共通してあるのではないでしょうか。

河本
僕が理想的なイメージとして考える、組織で力を発揮するシチュエーションは、例えば何かプロジェクトを立ち上げた時に「これは面白そうだな」と誰かが言ったとします。それを聞いた上司はその人物に必要なだけの人をつけて走らせてみる。さらに人が必要になれば、その動きに参加できる人をどんどん巻き込んでいく。要するに、会社内で仕事を2つか3つ持っていて、動きに上手く参加できない人は自ずと外れて、また別のかたちで与えられる仕事に戻っていく。そういうシチュエーションが良いシステムを形成するのだろうと考えています。プロジェクトの立ち上げの時に、予めすべて作戦を練って決められた役割に沿ってみんなで最後までやりましょう、というのではなく、このプロジェクトに参加するか、別のプロジェクトに参加するかという選択肢が保持されている状態と言ってもいい。時には2、3人で回していくこともあるし、またある時は10人ぐらいで一挙に動けるだけやってみる。こうして一番結果が出せるシステムとは、翻って個々の力が出やすいシステムなのではないかというイメージを持っているんです。

平尾
よくわかります。個人と組織の関係はそういうものなのでしょう。一方、どうも僕ら日本人は「やらなければならない」ことが強くあればあるほど「やりたい」気持ちが減っていく。おっしゃるような柔らかい仕組みのなかで、本人たちの内発的なモチヴェーションがベースになりながら仕事をすれば、何か今までになかったものが発生していきます。そういう楽しみは柔らかい組織内でのほうが圧倒的に起こりうると思います。でも、日本人にはどうもそれができない。極端を言えば「生きるか死ぬか」に追い込まれないと力が発揮できないと思っている人もいる。最近はだいぶ変わってきているとは思いますが。

河本
ええ。その場合、評価が非常に問題になる。つまり、誰か外にいる人がちゃんと「あいつがリーダーとして引っ張ってくれた」と言えればいいのですが、たいしたアイディアも出さずサポートだけをしていて「ずっと一緒に仕事をしたんだから同じ評価をくれよ」と言う人が出てきてしまう。または、自分に適した仕事の割り振りがなかったから自分の力が発揮できなかったという言い訳が出てきてしまう。例えば、みんなが0.8の力を出しているときにあいつは1.6出した、といった評価を誰かがきちんとかたちにしてくれればいいのです。けれども最後になって、これは一応皆の力で終わったのだ、皆対等によくやったということになる。形式的にはその通りだと思いますが、形式のもう一歩先のところで「あいつは難しい場面を乗り超えていく構想力を発揮した」とか「彼は今回は採用されなかったけれども良いアイディアをいくつも出した」といった、もっと細かい評価基準を持っていないといけないのではないか。

Filed under: 未分類,未分類 — admin @ 7:57 PM

技術と体力が同じなら、品格があるほうが勝つ

平尾
難しいですね。僕らも評価に関しては非常に難しい。というのも、評価する側もされる側も、互いをリスペクトしているかどうかが非常に大事だからです。それがあってはじめて、相手の領域や役割が、苦労も含めて理解されるのです。それが本質的になければ評価には絶対に文句がつきますし、問題が出てくる。あれやこれやと自分を正当化したいがゆえに、人の苦労は省みず、私はこれだけやりましたとすぐに言いたがるわけです。
チームで機能していくためには、まずお互いにリスペクトしないといけない。自分のできないことを相手がやってくれるのだから。それに対してすばらしいと思えないといけないし、そう思えた時には、向こうもだいたいそう思ってくれるものです。そういうふうに思えなくて、何だこいつはと思っていれば、向こうもこちらのことをそう思っている(笑)。例えば、フォワードはスクラムを組む。バックスはそれを見て「フォワードがこんなきついことをよくやってくれている、そのうえバックスにボールを出してくれる。だから俺たちは命がけでボール回そう」と思うわけです。それを、「あいつらはろくに走れないし、スクラムしか組めないじゃないか」と思ってしまえば、向こうも「お前らは楽な思いばかりしやがって」となってしまうんですよ、人間は(笑)。やはり、教育を通してリスペクトすることの意味を身につけることは、チーム・カルチャーを作っていくうえで非常に重要なことだと思います。

河本
よくわかります。そもそもゲームは、チーム内の共有感や上達感がないと成立しませんよね。それがないと皆やめてしまいます。升田幸三という昔の棋士は「技術が同じなら、体力があるほうが勝つ。技術と体力が同じなら、品格があるほうが勝つ」と言っています。平尾さんのおっしゃるリスペクトに近いと思います。

平尾
いい話ですね。

河本
ええ。それで僕は平尾さんのラグビーに品格を見ていたわけです。それは見た目の美しさ、良さというものとは少し違うし、切れ味の良さ、見た目の派手な格好良さとも違う。格好良さは松尾雄治さんにもあったんです。でも格好良いということと、プレーに品格があることとはちょっと違うんです。平尾さん自身はどう思いますか?

平尾
技術は重要だけれど、技術が維持されプレーに発揮されるには体力が重要であるということ。まさしくそうですね。今僕はそれを痛感しています。ただ、品格のあるラグビー、品格のあるサッカーという言い方は聞きますが、僕は意識して品格あるプレーをしようと思ったことがありません。それよりも、自分たちの持っている資源、つまりメンバーの力や環境の良さを一番引き出せるラグビーは何だろうかということを専ら考えています。そうしないと相手と差が出ないのだから当然です。良いところも悪いところも皆それぞれ持っているのです。それらを足して積んで、最後にどっちがたくさん積み上げたかを勝負している時に、けちばかりつけていたらなかなか積み上がらない。「お前はここができないからだめなんだ」などと言うのではなく、自分たちの持っているものをどう上手く活用できるかということだと思うんです。性格にも、良いところと悪いところがあるから、良い部分を引き立てて、戦力化できるかどうかです。悪いところは極力出ないようにして、あるいは誰かが肩代わりしてゲーム的な構造が作れないか、僕はそういうことをゲームのなかで考えています。例えば、大八木さん、林敏之さんでいえば、ボールを持って走るのが得意なのは大八木さんです。ところが林さんはタックルがすごい。この2つを同じ分やれというのは、よくない話なんです。要するに、ボールを持って走ってよいけれど同じ分タックルにも行ってくれ、と言っても上手くはいかない。林さんしかり、タックルがこれだけ上手いならボールを持って走れたらもっとよいだろうとか、そういうことではないのです。それぞれ得意な部分とあまり得意ではない部分があって、得意なものをどう上手く編集できるかということが、チームカラーを作る際に必要なことだと思うんです。日本的な思考からいうと、これをやったらこれもやりなさいという、変な平等主義があるからなかなかこれが上手くいかない。差を内部に抱えながら、その差を編集して出すことでチームカラーができるし、それがほかの追随を許さないものとして活きてくるのです。

誤解からしか中には入れない

河本
品格ってね、例えば上品なゲームというのとはなにも関係がないんです。神戸製鋼の強かった時代でも、テレビの解説者が「神戸製鋼が反則ぎりぎりのことをやっています」としょっちゅう言ってたわけですから(笑)。平尾さんがおっしゃるように、差を内部に抱えながら各の力を出現させてくる。そのためには出発点から鍛え上げる必要があると思っています。苦手なものを克服させるというよりは、良いところを最初に伸ばしてしまうということです。そっちの能力を最初に作っておく。集団のゲームですから、あとは誰が残りを補うかの問題になる。それがうまくいくと最高に力が出るシステムができるわけです。神戸製鋼のすごさはそこにあったという感じがするんですよね。それが品格につながっていた。

平尾
でもね、意図的なものも多少はあるとはいえ、こんなものは偶然の成しえる技ですよ。もっと言えば、やぶれかぶれ的なところもあった。感覚的に余裕のあるチーム作りができていなかったんですよ。いつも最後は「これしかないな」みたいな話になっていましたから。最後の最後で「これしかないな」でやってみて結果成功する。そこでは何の選択肢も持っていない。スクラムはいまひとつ弱かったし、じゃあボール回そうか、「それしかないな」と言ってやるわけです。フォワードにも、あまり前に行かないでくれと、前に出るだけ距離が縮まるから早めに球をくれと言うわけです(笑)。バックスのほうがフォワードより勝負できるのではないかとやってみたらそれがたまたま上手くいって、その年の最後の最後でパタパタパタって勝つんですよね。けれどそれは、断じて意図したものではなかった。勝負事をしている一方で現実論に巻き込まれ、目先の1点とか1mに気が向くようになってしまうとまた上手くいかなくなる。最後はもうこれでいいか、これで負けたらしゃあないなと思ってやったら上手くいったという話です。それ以外の何物でもない。上手いこといくと、世の中は話をすごく美化しますよね、それで「これしかないな」というやぶれかぶれの結果が、すばらしいモデルだと美化されたのです。皆で美化して、ほかのチームが真似し始める。結局、真似するところから弱体化が始まるんです。僕は絶対にそうだと思いますね。

河本
ここに編集の方がいらっしゃいますが、編集もいろいろとイメージを育て、組み立てをどう作るか、ものすごく考えるんです。期待に合う原稿が来なくてすごくがっかりしたり、内容は良いけれど方向がちょっと違うなとかやっている間に、最初に考えていたことがまったく無駄になるようなところにすーっと進んで行くことがある。無駄になったゼロの状態のなかで、でもなにかが立ち上がっている。それを大きくしていくと、時にそれは「自分たちはこんなものを作ったんだ」というすばらしいものになることがあるのです。こういうことはよく起こるんです。これがないと、ものが立ち上がるっていうことが起きない。それを外から見ている人は全部勘違いするんですよね。

平尾
その感覚はわかります。僕が現場のリーダーとしてやっていた当時はもう死に物狂いですよ。結果だけを見て「追跡! 神戸製鋼を追いかけろ」みたいな報道のされ方をしましたが、そんなきれいなものじゃない、僕らのお家の事情でこうなっただけの話。僕らにモデルを見出してしまった人たちはまた「自主性」とか言い出していましたが、自主性なんて日本人にそうそうあるかと思うんですよね(笑)。そんな習慣ないのに。あったのは林さんとか大八木さんとか萩本光威さんとかの、いろいろな個性です。この人たちの良いところは、すぐ飽きるところでした。僕もそうです。

河本
なるほど。それはものすごく重要なことです。

平尾
飽きるという才能があるんですよ。誰も来年も同じことをやろうとは言わない。バックスがスペースにボールを動かすという基本姿勢になんらかの変形を加えていくと、これでいけるんじゃないかと思う時がくる。そう思いながら、毎年変えていくんですよ。連覇の秘訣は何かと言うと、前やったことに飽きることだって僕は言っています。とにかく飽きっぽい(笑)。

河本
これは面白いですね。子供はなにか面白い遊びを見つけたら一時夢中になってそればかりやっていますが、気が付いたらそれに飽きてまったく別のことをやっている。この夢中になる/飽きるという行為のパターンをもう思い起こせなくなっている。少し話が変わりますが、例えば100mや200mといった短距離アスリートの走りをヴィデオで見ると、ものすごく精確に足を上げ、地面を蹴って、きれいな走り方をしている。ところが100mを10秒台で走るアスリートたちに聞いてみると、地面を蹴ってはだめで、足は真上から下ろさないといけないと言う。飛び石づたいに真上からポーン、ポーンと足を下ろすほうがいい、あとは重心移動で走らなければならない。蹴ったりしたら全然走りにならないと言う。ところがヴィデオで見ると、きれいに足を上げて地面を蹴るんですよ。本人の持っているイメージと、外から見たときに見えてしまう実像の間のズレ。外から見ている人が神戸製鋼のあり方に必ず誤解からしか入れないというお話に通じます。誤解からしか中に入れないということに、すごく重要で難しい問題がある。

Filed under: 未分類,未分類 — admin @ 7:47 PM

規定の価値を超えるために

平尾
それはあると思いますね。例えば僕らがあるプレーヤーの力量を測る時、あるいは相手チームの戦略分析をする時に、これは意図的にやったプレーなのか、流れのなかで偶然起こったプレーなのか、その判断の分岐点はいつでも微妙なところにあります。こんなものたまたまや、と括ってしまいたくなるプレーがある。ただそこで無視してはいけないのが、それが本当の能力だということです。トライしたい願望がそれを実現させているのです。人間は、どうしたらトライできるかと心底思っていたら、そこにボールを運べる能力があると思う。その思いの度合いやと。でも思いの度合いだけではだめで、思いの度合いに技術が足されて、それが非常にすばらしいプレーを生む。まさに技術と体力が連携してこないと「できる」という感覚が生まれないのです。そのプレーがすばらしく行なわれたことを「あの時11番がこう来て12番がこう飛ばしました」とか解説しても、それはなにも捉えていなくて、こいつは本当にトライしたい一心でプレーしているがゆえに、このプレーが反射的に行なわれたのだという読み取りが必要なのだと思います。それに、変に過大評価するのもよくないんですよ。

河本
その見方が解説者だけでなく、観る側にもなかなかつかなくてね。例えば、平尾さんについての伝記的な書物がたくさんあります。それらは確かによく見ているのですが、何か届かないところがあるなと感じるのは、やはりそうした読み取りに関係しているのです。外から観るだけの訓練をしていたのではなかなか届かない。「できる」という能力はものすごい重要で外には見えない。見えるのは格好や見てくれだけですから。

平尾
そういうことだと思います。だから過大評価してはいけないけれども、過小評価してもいけない、微妙な均衡がいるわけです。プレーの成り行き、そこに行き着くまでの現象をどういうふうに見るかはさまざまですね。僕は瞬間瞬間を、いろいろな可能性を含んだものとして考えて見るんですけれど、人間はさほどできすぎていないと思うので、逆に過程にどこかしら偶然を認めたり、織り込んでいかないと、本質的なものは見えなかったりしますね。

河本
それと並んで、いつも感じることがあるのです。15人のプレーヤーそれぞれのポジションの持っている価値や働きを、今後まだ変えていくことができるか、その可能性についてです。例えば将棋でいうと、大山康晴十五世名人は金の働きを変えてしまった。駒は前に進むものなのに、金引きというような下がる手を多用しました。中原十六世は右桂馬の働きを変えてしまった。それまで見えていなかった働きを見つけて、同じポジションで異なる力を発揮させる。こういうことは、システムやネットワークに必ず潜在的に含まれている。そう考えるものですから、例えばラグビーのナンバー8のポジションには、まだ何か違う働きが本当はあるようにも見えるんですよね。

平尾
おもしろいですね。僕もその通りだと思います。ゲームとしての可能性とはそういうところにあるのだと思う。ポジションごとに役割が決定されているわけではない。そこにいるがゆえにできることというのは、いま規定されているもの以上にいっぱいあると思います。あとはそのプレーヤーの資質とか、こんなこともできるぞというプレーヤーのイマジネーションなどの資源をチームがどう取り込んでいくかということだと思う。ポジションは背番号と一緒、とりあえず与えられているだけであって、例えばプロップの選手がスクラムハーフのするようなこともできるのであれば、それが一番いい。本質的に、ポジションは役割ではないのです。そのプレーヤーができることが基本になって、そのうえでポジションがあるという順番のような気がしています。

河本
そうしたことは会社組織でも同じで、ポジションの活用の仕方については、まだまだアイディア出しが足りていないという感じを受ける。

イメージする力、予期・予測する力の可能性

平尾
そうですね。あらかじめ決められたことをどれだけ正確にこなすかというところから脱していかないと、新しい力は生み出せない。強くなりたいとか、トライをしたいとか、その気持ちの強さが非常に大事であって、そのことがなにかとんでもないプレーを生み出すひとつのきっかけにはなる。道筋をいかにきれいに歩むかということから始まったら、それ以上のことをするのは絶対に不可能ですよね。簡単に言うとプレーがこじんまりする。予想を超えない。

河本
そこですね。日本人って、上手く勝ったら小さくなるんですよ。物書きもそうで、ちょっと売れるとすぐ小さくなってしまう。前に読んだことのあるストーリーでまた書いたり、読者の期待にただただ合わせるようなことをしてしまう。例えば神戸製鋼が毎年少しずつスタイルを変え、新しい要素を取り入れていく時は、イメージが持つ可能性とか、時間を超えた予期の働きといった問題にかなり接近していたと思う。小さくこじんまりならないためには、イメージや予期の働きをエクササイズしないといけないだろうと思うのです。

平尾
人間のイメージする力が一番豊富になる時、もっとも深読みが冴えてくるのはいつかといえば、楽しいこと、嬉しいことを考えている時です。例えば、明日彼女とデートだという時のイメージの膨らみ方はきっといつもの3倍くらいあるはずですよ。一般的にですよ、そうですよね(笑)。あんな店に連れて行ったら喜ぶだろうなとか、いろいろな喜んでもらえそうなことを考える。そういうイメージの膨らみを練習に繋げていくことが非常に大事です。だから、ラグビーがものすごく好きなプレーヤーは、動かしがたい大きな可能性を持っているのです。僕はこれは非常に重要なポイントだと思っている。イメージする力を高める、予期・予測する力を養うためには、その手法を知るよりも、好きにさせるほうが手っ取り早いし確実です。そんな連中が集まると、いろいろな想定やアイディアが出、そのなかから一番現実的なものを選択してやっていくことが自然にできていくようになると思います。

河本
でも、多くの日本の組織ではなかなかそこまで行けません。つまり、個人にある程度の資質があり、それを自由に発揮することを許容する場所があって、それぞれに取り組んでみたら力が出やすい。周りの人もそうやっているし、自分も自然と力が出せるようになってきた。そんな環境がないと、イメージする力を高め、予想を超えていくことはなかなか難しい。裏を返せば、うまくいこうといくまいと、やってみたらどうも面白くなかった、好きではなかったらしい、大したことはなかったというケースは、自分の内ではなく外から課題を課してしまっていたということだと思うのです。外から課している間は、満たしてしまったら面白くなくなる。好きになるためにはその課題をプレーヤーなり組織人に上手く設定させることがものすごく重要らしい。

平尾
好きになってもらうために、僕はいつも考えることができる練習をさせようとするんですね。というのは、考えなくてもいい練習がいっぱいあって、みんなそればっかりやっているから。でもそれは効果が少ないからあまり意味がないのです。考えさせる練習にはいろいろな選択肢が含まれているから、あまり怒ったりせずにともかく思考が動くようにしてあげないといけない。動く思考とは、こうでもないああでもない、どっちでいくべきかといった流動的な思考です。一方、ミスしたらいけないとなると思考なんてほとんど動かなくなる。失敗しないための選択しかしなくなるとプレーがちっともダイナミックでなくなる、というのは誰でもわかっていることのはずです。そのうえで、失敗した相手に「これは考える練習だからOKやで」と言えるかどうかは、もう指導者の度量に関わってくる話です。
日本人はせっかち君だから、使うほうも使われるほうもすぐに結果を求める。戦後一気に経済成長しましたが、あれはさまざまな要因の集積のうえに達成した奇跡だと思ったほうがよいのです。奇跡だから今同じ考え方をしていてもだめで、あれやこれやしていくなかで、いろいろな経験や感覚が掴めていくということが非常に重要です。練習ひとつとってもそうですが、単に成功だけが目的であれば、初めから何も考えずにセオリー通り、決めた通りやったらいいんです。でもこれでは絶対に先はない。

Filed under: 未分類,未分類 — admin @ 7:28 PM

「強い個」のヴァラエティ

河本
そう、そこなんですよね。セオリー通りにやって直ちに頭打ちになってしまう事例はたくさんある。日本の場合、例えば戦後から1980年代頃までは外国にまだ真似ができる対象があって、取り込んでいれば何とかなるという時期が続いたわけです。しかし当然あるところまできたら、今度は自前のものを作らなくてはいけなくなる。ここで必要になるのが、平尾さんがずっとおっしゃっている「強い個」ですよね。「強い個」になるには多くの条件をクリアすることが必要です。しかも──多くの人の誤解を招かないようにしておくために言いますが──、「強い個」のパターンやモードは相当数ある。要するに「強い個」を持った人たちは個性的ですから、それがひとつのパターンやモードに収まるはずがない。「強い個」のヴァラエティ。そのようなものが、この先の日本には絶対に必要になってきます。実際のところ現在もうすでに必要なのですが、その作り方、養成の仕方を誰も知らないのですよ。セオリーをはみ出してしまう、あるいはセオリー通りにやったにもかかわらず失敗してしまう。その末に待っているのが反省文ですよ。反省文を書かせていったい何に活きると思っているのか(笑)。

平尾
僕は最近いつも思うんです。反省はしたほうがいいですけど、ほどほどで止めといたほうがええなと(笑)。反省に関して僕なりにいろいろな人にいろいろな教わり方をしましたが、なによりもゲーム中は反省なんかしている時間はないんですよ。でも反省しているプレーヤーが多い。ボールをポロっと落としてしまって、足でバーンと蹴られてトライされるとします。この時ボールを落としたプレーヤーはただひたすら反省しているんです。反省、そして後悔。「何で落としたんだろう」とか、「雨だからこういうふうにパスをしたらよかった」とか。こういうのはまだましです。もうちょっと悲観的になると、「何でよりによって俺はあそこにいたんだろう」。もっと悲観的になると、「今日俺が出る試合に限って何で雨なんだろう」(笑)。

河本
もうフィールドで考え込んでしまっているじゃないですか。

平尾
そう。でもこのケースは多いですよ。誰も少なくとも「クソ、何で落としたんだ」くらいは思います。「クソ」と思って地面を叩いているプレーヤーはまだましです。それがうつむいて、「俺はチームにとってとんでもないことをした」と、こんなことを思っている奴がいるわけです。懺悔している間、こいつは戦っていないんですよ。こんな輩がけっこう多いし、なんだかまた、周りが後悔させるように持っていく。「お前のせいで」みたいに(笑)。ボールを落とした瞬間、取られた瞬間に、どうやって取り返してやろうかと考え始める猛々しいプレーヤーがいないとゲームはまず勝てないですよね。だからそんな時は相手がいけいけで15人でプレーしている間にこちらは1人欠いているも同然、14人で戦わなければならない。こいつの気持ちを戦う土俵に引き上げて、早く15対15に持ち直すというのがすごい重要なのです。みんな順番に反省しまくってますからね(笑)。
ミスをして反省している間にも当然ゲームは動く。そういう時はどうしたって思考が働きしづらくなるし、知恵が引き出しにくくなる。ここで忘れてはいけないのが、雨が降っているという条件はすべてのプレーヤーにとって一緒だということ。相手もボールを落とす可能性が高い。その時に、待ってましたとばかりに足が前に出るプレーヤーじゃないと、ゲームは運べません。「クソ」と思うのはいいけれど、次の相手のミスを見逃すな、そのためにつねにアンテナを張っておけと。「何で落としたんだろう」なんてゲームが終わってから考えたらいいんです。それまではゲームが続いている。ここが非常に重要だと思います。

感性─直感/体験─情報、そして映像

河本
そういうことも含めて、ゲームにおいて判断の速度はそのまま試合の結果を左右すると思うんですね。プレーヤーはつねに状況に対して相当な読み込みをしたり、情報処理をしている。けれども、考えたりしていたら、最小の時間単位で目に入ってくる場景に対する判断はつねに遅れてしまう。最善の選択とは考える手前で行なうことであって、どの選択肢を選ぶべきか、パッと見えるような局面があると思うんです。それが感性、直感なのです。

平尾
それってどうなんでしょう。僕は直感を信じていないわけではなのですが、直感とはすなわち経験と情報だとも僕は思っています。次はこうなるだろうというイメージがパッと見えるような経験を時々しますが、それは僕が記憶のどこかに留めている過去のいろいろな体験、あるいは体験していないけれども疑似体験のようなものとしてあるもの、自分以外の人の話から得た情報、そういうものが自分の目的達成に向かう欲望の下に一気に集結する場面があると思うんです。それを直感というふうに言っているだけであって、僕は意外にそれを現実的に見ているところがあるんですよ。

河本
なるほど。それはとても面白い。

平尾
ラグビーは機械を相手にしているのではありません。人間が相手です。ですから、相手の出方でこちらの出方が変わったりすることがある。現場では「あそこからタックルがきた。次のプレーを直感で感じて1人かわそう」というような計算は通用しない。その場面に直面した僕はたぶん、相手がスタートする時の気迫とか、顔の向きとか、それまでのプレーの傾向、そのほかの情報を自分のどこかに集めているんですよ。これを基にプレーに反応しているだけであって、何も当てずっぽうはしていないのです。ボールを受けた瞬間に、相手が動く映像が自分のなかにある。僕はいつもどこかで観察しているんです。でも今のプレーヤーにはその観察力があまりない。
要するに人間には、何かをする際に前もった動きや気配があるんですよ。それを読み取る力が河本先生のおっしゃる感性かもしれませんね。だとすればこの感性はとても重要で、相手が人間であるがゆえの駆け引きにはなくてはならないものでしょう。ただそれは、何回やってもわからない人はわからない。僕が見るところ、最近の子供たちは駆け引きが非常に下手なんです。機械ゲームに対する能力は高いですよ。新しい物の使い方、例えばパソコンの習得なんかめちゃくちゃ早いですよね。説明書をパッと読んで複雑な動きを全部こなすんです。でも対人関係における駆け引きはめちゃくちゃ下手ですよ。僕は全体として見て、この感性、駆け引きする力というのは、今すごく落ちてきている能力のひとつだと思います。ゲームをやる時に「相手が腰が引けて出てこられない、そういう時にはこう攻めろ」と僕が言うけれども、相手が腰が引けている時がどんな時かわからないわけですよ(笑)。相手の出方、気持ちのあり方などがどんどん読めなくなってきていていますね。

河本
ええ、それはもう間違いないです。

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関係の多様性と経験の質

平尾
環境に目をやれば、今は裕福さが満ちています。昔は合宿をしても10人部屋なんてあたりまえだったじゃないですか。それが、僕が監督をしている頃から激変して裕福な時代になるんです。2人部屋があたりまえになり、そのうちにツインでも寝られなくなる。コンディショニングという言葉を盾にして、「いびきがうるさい。自分をベストな状態に持っていけない」とか言い出す。そうかと言って1人部屋にしてやる。こうしてどんどん対話が少なくなり、1人の世界になる。退屈しのぎはテレビかテレビゲームか音楽で、そこには人との駆け引きは一切ない。今は家でも皆そうじゃないですか。今自分の部屋を持っていない子供ってほとんどいないですよ。少子化が進み、全員自分の部屋があって、人と接しなくていい。昔はよくても兄弟で1部屋、人と接しない時間なんてまずありませんでしたよね。

河本
昔はそれが普通でした。家に帰ったら鞄を放って、すぐ皆の所に遊びに出かけていたんですから。

平尾
あれは、裕福な時代ではなかったがゆえにあった能力のひとつですよ。いびきがうるさくて寝られなかったら、僕らの時代では死んでますよ(笑)。いびきがうるさくて昨日は寝られなかった、というのが1日や2日あるかもしれないけれども、10日間続いたらそれは死ぬ。だから絶対に寝られるんです。そんなことはただ単に慣れの話です。わーっとしゃべって、自分の居場所を作って、俺がいたらこの話はしにくいんだなと思ったら席を外す。こんなやり取りがたくさんあった。今は1人でいる時間が長いから、こんなことができない。単なる世代論ではなく、これはある大きな局面を迎えているなと思ったりするのです。

河本
やはり若い社員を見ていても、そんな感じはありますか?

平尾
上手くは付き合いますよ。でも一番できないことは、衝突してそれを解決することですね。うわーっとやり合うけれども、その1時間後には肩を叩いてる、なんて光景は今は難しい。

河本
それも選択肢の多様性に関わることです。付き合いさえもどこか機械的にやっている。パターン化しているんですよね。

平尾
僕も時々かわいそうやなと思ったりするんです。チーム内でも皆仲よくしているように見えるけれど、本当にそうかなと思ったりします。指導者も昔は伏見工業の山口良治先生みたいに厳しいけれど暖かい人がいた。今はものわかりのいい指導者が多い。ミスしても怒らないし、優しいんです。でも冷たい。厳しさと暖かさがある環境のなかでいろいろな関係性を構築することが、大人になっていくひとつのプロセスとして必要かなと思いますね。

河本
物わかりがよい、わかってしまうというのは、能力のごくわずかしか使っていないことの表われでしょうね。逆説的だけれども、考えてみればすごく普通のことです。わかるというのは本来そんな簡単なことではありません。人間というのはもっと幅広い経験を持っているし、それに基づいた生活をしているはずです。それなのに、お互いに簡単にわかり合える水準のところで能力を出すことしかしていないのではないか。そういう感じがあります。

平尾
そういうことも含め、最近はいろいろなものを感じる機会が多いですね。ともかく人間は深く考える力を持っていて、深く観察することも、繊細に感じ取ることもする。やればやるほどそういうものが出てくるところがすごいわけです。けれども、どこかでもうやらなくていいと判断してしまっているのか、それ以上やっても仕方がないとあきらめているのか。もっとできるはずだと思うんですけどね。

河本
個々の本人は本性上ある安定した枠の内側にいたいのですから、いつもとは違う経験をさせることから始まるのでしょうね。ラグビーでいうと、サントリーが後半の20分が過ぎたあたりから、永友洋司がスクラムハーフに入って突然スピード速くなる。一挙に速度チェンジを仕掛けて、「何を始めたんだ」と混乱を起こす。そういう時期が何年かあり、後半20分になったら永友が出てきてスピードを上げていくスタイルが定着した。定番が生まれると、次に経験の質を変えていく時にはさらに工夫をして提示していかなければなりません。次々と経験のパターンやモードを切り替えて繰り出せるような選択の潜在性をもったような経験を作れないのかなという思いはいつもあります。場合によっては、本人が気が付いた時には違う経験まで行っていたという形までデザインをしておかないといけないのかなと、という思いもあります。

平尾
そうですね。ある程度そういうところまで予測したうえでのことかもしれません。

瞬間の映像、関係の映像

河本
平尾さんのラグビー理論はいろいろなところに書かれていますが、スペース作りが起点になっています。例えば平尾さんが動き始めると、2、3人が止めようとして寄ってくる。すると必ず平尾さんの動きに合わせてスペースができていく。ディフェンスからすると、このスペースは精確に動いたことによってできたスペースです。だから彼らは正当なことをやっているんですよね。それを意識的に作り出す動きが平尾さんの頃にはっきり出てきた。ああいう作戦の見事さは面白かった。

平尾
ディフェンスが寄るのは、そこに「脅威」を感じるからです。だから、危ないと思わせなければいけない。初めからこうくるんだなと思うと、危なくないわけです。意外な動きで自分に注意を引き寄せる。その動きのなかでスペースができるのであって、だから僕に危険性がないといけない。体の向きを変えるだけでスペースはできるわけです。それに対してこちらはすぐに反応して、次の場所にボールを運ぶ。それだけの単純な発想です。

河本
しかし最初に見るとすごく新鮮ですよ。

平尾
─僕らは意外とそんなことはあたりまえに思っていた。だから言いましたでしょ、ミスをして考え込むほど無駄なことはないんです。別にグラウンドが広くなったわけでもないし、相手が20人になったわけでもない。同じフィールドにいて相手が15人で守っているということは間違いない。そのなかでこちらがどこにスペースがあるかなと探し始めると、相手も守るのが簡単です。「俺がスペース作ったるわ」と動けば、絶対自分にディフェンスが集中する。集中するから、ちょっとスペースができる。こういうことです。スペース普遍の法則です。

スタッフ
今日はイメージの力、映像として把握する試合の流れ、そして直感、予期・予測といった話が出てきました。最後に、今お聞きしたディフェンスと対峙するその瞬間の判断について平尾さんにお聞きしたいと思います。先に、ボールを受けた瞬間に、相手が動く映像が自分のなかに浮かぶとお話され、その感覚を磨くには、観察力や感性など、他者とのいろいろな関係性の経験を積むことが重要だとおっしゃいました。さらに今のお話ですと、自分が誰かの動きやひとつの焦点に反応しているところを誰かに見られている。自分はそれにリアクションしているという関係があるわけですね。言い換えれば、相手の視線も自分のものとして幾重かに組み込んでいくということかと思います。試合においてリアクションを返していくという経験は、やはり単独の視線では積み上がっていかないものなのでしょうか。

平尾
それはものすごく面白い話ですね。自分が見ている映像だけではなく、相手が見ている自分の映像というものも自分で作れないとだめですよね。自分の動きが脅威であるかどうかというのは相手の視点でしか捉えられないわけで、自分勝手に思い込むことはできない。さらに、相手の持っている能力も測りながら自分のプレーをどう思っているのか、その結果自分をどういうふうに恐怖に思っているかを予測する。そういうものを複層的に重ね合わせなければ、本当の意味での確率の高い情報にはなりません。
予期的な映像はつねに関係性のなかでしか立ち上がらない。それはすごく不思議な世界でもありますが、間違えなくひとつの能力だと思います。

河本
ものすごくたくさんの身体的なサインを使っていましたよね。例えば、黒目の動きだけで1人かわしたとか。

平尾
ええ。しかしそれも関係性のなかでこそできることです。つまり、相手にしてみればサインを読めてしまったから僕を倒せなかった。逆に言うと、わざとらしいフェイントまでやらなかったら動かない鈍感な奴もいますから、相手の反応する能力に合わせてサインを出していくわけです。

河本
今日お聞きした話のなかには、運動訓練のなかの認知能力の活用の仕方について、多くの示唆が含まれているように思います。運動のエクササイズのなかでは、訓練のなかで運動そのものの反復訓練に一生懸命になってしまう傾向があります。それは過度に生真面目にやってしまうという印象をもつほどです。むしろ経験の仕方を変えていくために、イメージや予期あるいはイマジネーションのような認知能力の活用が必要であることは、とても重要な示唆だと思います。それは日常のなかでもそれぞれの個の創意・工夫を引き出すためにも重要な点だと思えます。本日は実りあるお話をありがとうございました。

2008年12月11日
東京都写真美術館

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