鍵のかからない日記
「鍵のかかる部屋」という三島由紀夫の短編小説があるが、「鍵のかかる」という言葉は、その部屋に閉じ込められた秘密の出来事への好奇心を掻き立てる。本来、日記とは独白や懺悔といった秘密を封じ込め、鍵をかけるべきものである。同時に日記とは自己表現の場でもあるが、読み手となるのもまた自分自身であることが多い。しかし日記が芸術の表現手法と成り得る場合、他者の目に触れることが前提の「鍵のかからない日記」でなければならない。

老境の域に達した文人たちの日記、谷崎潤一郎の『瘋癲老人日記』や永井荷風の『断腸亭日乗』を写真で実践するのが荒木経惟の「写狂老人日記」である。写真は日々を記すのに適したメディアであり、日記との共通点も多い。日記における真実とは客観的な事実とは別のもので、むしろその矛盾や相違が人間の業や不条理を浮き彫りにする。
スーザン・ソンタグの死後刊行された『私は生まれなおしている──日記とノート1947–1963』は彼女がまだ世に出る前、発表を前提とせずに書き記したもので、そこには瑞々しい感性や若き日の苦悩、そして才能の萌芽が見られる。鈴木康広の《記憶をめくる人》も同様に自らの内に沸き起った創造の源を書き留めてきたノートを、作品化し巨大なプロジェクションで公開する。ソンタグは同書で、日記とは「自分が自分であるという感覚を持続するための乗り物」[*1]であり、また「他者(親とか恋人とか)によってひそかに、何度も読まれてしまう。そのことはまさしく日記や日誌の主たる(社会的な)機能のひとつだと思う」[*2]と、その本質を言い当てている。母親と息子がお互いの日記を盗み見る様子を描いた大江崇充の《適切な距離》では、ソンタグが示唆したように日記が崩壊寸前の親子関係におけるコミュニケーション・ツールの役割を果たしている。
大江崇允 《適切な距離》2011/HD/サウンド/カラー/95分

時の集積
一人称で語るものに対して、客観的に事象を記す観測的な日記もある。野口久美子+平川紀道+森浩一郎の《潮位と鉄の半閉鎖的計測》は、月の満ち欠けと潮位の変化、鉄の酸化の推移をとらえた映像と計測データで各々の相関関係を可視化する。ベン・リヴァースの《スロウアクション》では終末後に設定された現在より、人類の歴史や自然環境から帰納的に未来におけるユートピアの可能性を探る。いずれも現在という地点から時間を遡り、人知によって未来を見定めようとする知への欲求がある。ザ・プロペラ・グループの《ザ・ドリーム》の日本製バイクの部品がむしり取られていく生々しい監視カメラの映像は、そのままヴェトナムの社会状況を映し出す。

時の断片としてのイメージ、その集積が作品を構成するものもある。《ワン・セカンド・パー・デイ》や《WONDER (in progress)》は、日々描きためた絵をアニメーションならではの手法でまとめあげる。クリストファー・ベイカーの《ハロー・ワールド! または、私は如何にして聞くことを止めてノイズを愛するようになったか》では、インターネットにアップロードされた無数の動画がモザイクのように鏤められ、個々の映像はノイズと化し、新たなメディアがもたらすプライヴェートの変容が示される。宮永亮の《arc》では自ら撮影した膨大な映像群から選ばれ、コラージュされた時の束が新たな地平を切り拓いていく。
クリストファー・ベーカー《ハロー・ワールド!または、私は如何にして聞くことを止めてノイズを愛するようになったか》2008 / マルチチャンネル・オーディオヴィジュアル・インスタレーション(HD、サウンド、カラー)/ サイズ可変 / 撮影:クリス・フルトベルク

プライヴェートからパブリックへ、あるいは歴史から記憶へ
日記映画の第一人者、ジョナス・メカスの作品には、プライヴェートな日常がスナップショットのように収められ、刹那的な場面の端々に表れる感情の移ろいは、自分と他者、あるいは世界との繋がりを模索するようでもある。福崎星良の《Come Wander With Me》は、自らの日常や周囲の人々をとらえた映像と大量のファウンド・フッテージを等価にとらえ、シークエンスへと集約したある種のセルフポートレイトである。「自分のことについて語る」ことをテーマにしたライヴ・パフォーマンス、川口隆夫の《a perfect life》では、日常生活のある一場面を発端として、複合的な要素から成る私小説が展開されていく。
上映プログラム「約束の地」の短編作品には、複雑さと矛盾を抱えるイスラエルの現在がさまざまな世代の視点から描かれている。ジェレミー・デラーの《エクソダス》は、無数のコウモリが飛び立つ姿を約束の地を目指した「出エジプト記」の民になぞらえ、悠久の時を遡り民族の歴史に翻弄された人々を想起させる。ヒト・スタヤルの《キス》とシェイラ・カメリッチの《赤のない1395日》は、いずれもボスニア紛争下の記憶をモティーフとする。《キス》での、ある事件の謎を解明する中で見えてくる盲点に迫る、そのアプローチはイェジー・カワレロウィッチの政治的スリラー『影』を彷彿とさせる。カメリッチは紛争のまっただ中で過ごした多感な10代の頃の記憶を、身体的に刻み込まれた感覚を手がかりに、年月を経て作品化した。ジョナス・メカスの代表作『リトアニアへの旅の追憶』でも歴史に刻印された記憶が年月を経て映像化されている。ナチスによって故郷を追われ亡命したニューヨークでの生活、27年を経て訪れたリトアニアの故郷、強制労働収容所のあったハンブルグ郊外の町からウィーンへという3つのパートからなり、追憶の風景が蘇る。
ジェレミー・デラ-《エクソダス》2012 / 3D デジタルヴィデオ・プロジェクション(サウンド、カラー) / 5分35秒Courtesy:Art Concept, Paris, Gavin Brown's enterprise, New York, and The Modern Institute/ Toby Webster Ltd, Glasgow

時を記すという衝動
ペドロ・ゴンザレス・ルビオの《祈–Inori》では陸の孤島とも称される過疎の山村で自然と向き合い積み重ねる村人たちの日々の営みが、またベン・リヴァースの《湖畔の2年間》では人里離れた森にたった一人で生きる孤高の男の日常生活が、美しい自然とともにフィルムに収められた。いずれも淡々とした静かな時の流れの中で、脈々と息づく生命の循環を感じさせる。60年代から「デイト・ペインティング」を続ける河原温。描いた日の日付のみが記されたストイックな画面からは作家自身も含め日付以外の要素は不在化され、逆説的に日付が作家の生存証明となる。

映像は時間の推移を写実的に記し、また複雑な感情の移ろいや無意識的な記憶をも視覚化しながら、日記的な手法による自己表現の可能性を拡げてきた。時を記すことはあらゆるものの存在を確かめようとする強い衝動に突き動かされた行為であり、生のエネルギーの表れ、すなわち自らの生の証に他ならないのである。
ベン・リヴァース《湖畔の2年間》2011/16mm film、サウンド、白黒/86分/イギリス/ダイアローグ無しCourtesy: LUX, London


[*1]スーザン・ソンタグ『私は生まれなおしている──日記とノート1947-1963』木幡和枝訳、河出書房新社、2010年、232頁

[*2]スーザン・ソンタグ、前掲書、233頁