技術と体力が同じなら、品格があるほうが勝つ

平尾
難しいですね。僕らも評価に関しては非常に難しい。というのも、評価する側もされる側も、互いをリスペクトしているかどうかが非常に大事だからです。それがあってはじめて、相手の領域や役割が、苦労も含めて理解されるのです。それが本質的になければ評価には絶対に文句がつきますし、問題が出てくる。あれやこれやと自分を正当化したいがゆえに、人の苦労は省みず、私はこれだけやりましたとすぐに言いたがるわけです。
チームで機能していくためには、まずお互いにリスペクトしないといけない。自分のできないことを相手がやってくれるのだから。それに対してすばらしいと思えないといけないし、そう思えた時には、向こうもだいたいそう思ってくれるものです。そういうふうに思えなくて、何だこいつはと思っていれば、向こうもこちらのことをそう思っている(笑)。例えば、フォワードはスクラムを組む。バックスはそれを見て「フォワードがこんなきついことをよくやってくれている、そのうえバックスにボールを出してくれる。だから俺たちは命がけでボール回そう」と思うわけです。それを、「あいつらはろくに走れないし、スクラムしか組めないじゃないか」と思ってしまえば、向こうも「お前らは楽な思いばかりしやがって」となってしまうんですよ、人間は(笑)。やはり、教育を通してリスペクトすることの意味を身につけることは、チーム・カルチャーを作っていくうえで非常に重要なことだと思います。

河本
よくわかります。そもそもゲームは、チーム内の共有感や上達感がないと成立しませんよね。それがないと皆やめてしまいます。升田幸三という昔の棋士は「技術が同じなら、体力があるほうが勝つ。技術と体力が同じなら、品格があるほうが勝つ」と言っています。平尾さんのおっしゃるリスペクトに近いと思います。

平尾
いい話ですね。

河本
ええ。それで僕は平尾さんのラグビーに品格を見ていたわけです。それは見た目の美しさ、良さというものとは少し違うし、切れ味の良さ、見た目の派手な格好良さとも違う。格好良さは松尾雄治さんにもあったんです。でも格好良いということと、プレーに品格があることとはちょっと違うんです。平尾さん自身はどう思いますか?

平尾
技術は重要だけれど、技術が維持されプレーに発揮されるには体力が重要であるということ。まさしくそうですね。今僕はそれを痛感しています。ただ、品格のあるラグビー、品格のあるサッカーという言い方は聞きますが、僕は意識して品格あるプレーをしようと思ったことがありません。それよりも、自分たちの持っている資源、つまりメンバーの力や環境の良さを一番引き出せるラグビーは何だろうかということを専ら考えています。そうしないと相手と差が出ないのだから当然です。良いところも悪いところも皆それぞれ持っているのです。それらを足して積んで、最後にどっちがたくさん積み上げたかを勝負している時に、けちばかりつけていたらなかなか積み上がらない。「お前はここができないからだめなんだ」などと言うのではなく、自分たちの持っているものをどう上手く活用できるかということだと思うんです。性格にも、良いところと悪いところがあるから、良い部分を引き立てて、戦力化できるかどうかです。悪いところは極力出ないようにして、あるいは誰かが肩代わりしてゲーム的な構造が作れないか、僕はそういうことをゲームのなかで考えています。例えば、大八木さん、林敏之さんでいえば、ボールを持って走るのが得意なのは大八木さんです。ところが林さんはタックルがすごい。この2つを同じ分やれというのは、よくない話なんです。要するに、ボールを持って走ってよいけれど同じ分タックルにも行ってくれ、と言っても上手くはいかない。林さんしかり、タックルがこれだけ上手いならボールを持って走れたらもっとよいだろうとか、そういうことではないのです。それぞれ得意な部分とあまり得意ではない部分があって、得意なものをどう上手く編集できるかということが、チームカラーを作る際に必要なことだと思うんです。日本的な思考からいうと、これをやったらこれもやりなさいという、変な平等主義があるからなかなかこれが上手くいかない。差を内部に抱えながら、その差を編集して出すことでチームカラーができるし、それがほかの追随を許さないものとして活きてくるのです。

平尾誠二

誤解からしか中には入れない

河本
品格ってね、例えば上品なゲームというのとはなにも関係がないんです。神戸製鋼の強かった時代でも、テレビの解説者が「神戸製鋼が反則ぎりぎりのことをやっています」としょっちゅう言ってたわけですから(笑)。平尾さんがおっしゃるように、差を内部に抱えながら各の力を出現させてくる。そのためには出発点から鍛え上げる必要があると思っています。苦手なものを克服させるというよりは、良いところを最初に伸ばしてしまうということです。そっちの能力を最初に作っておく。集団のゲームですから、あとは誰が残りを補うかの問題になる。それがうまくいくと最高に力が出るシステムができるわけです。神戸製鋼のすごさはそこにあったという感じがするんですよね。それが品格につながっていた。

平尾
でもね、意図的なものも多少はあるとはいえ、こんなものは偶然の成しえる技ですよ。もっと言えば、やぶれかぶれ的なところもあった。感覚的に余裕のあるチーム作りができていなかったんですよ。いつも最後は「これしかないな」みたいな話になっていましたから。最後の最後で「これしかないな」でやってみて結果成功する。そこでは何の選択肢も持っていない。スクラムはいまひとつ弱かったし、じゃあボール回そうか、「それしかないな」と言ってやるわけです。フォワードにも、あまり前に行かないでくれと、前に出るだけ距離が縮まるから早めに球をくれと言うわけです(笑)。バックスのほうがフォワードより勝負できるのではないかとやってみたらそれがたまたま上手くいって、その年の最後の最後でパタパタパタって勝つんですよね。けれどそれは、断じて意図したものではなかった。勝負事をしている一方で現実論に巻き込まれ、目先の1点とか1mに気が向くようになってしまうとまた上手くいかなくなる。最後はもうこれでいいか、これで負けたらしゃあないなと思ってやったら上手くいったという話です。それ以外の何物でもない。上手いこといくと、世の中は話をすごく美化しますよね、それで「これしかないな」というやぶれかぶれの結果が、すばらしいモデルだと美化されたのです。皆で美化して、ほかのチームが真似し始める。結局、真似するところから弱体化が始まるんです。僕は絶対にそうだと思いますね。

河本
ここに編集の方がいらっしゃいますが、編集もいろいろとイメージを育て、組み立てをどう作るか、ものすごく考えるんです。期待に合う原稿が来なくてすごくがっかりしたり、内容は良いけれど方向がちょっと違うなとかやっている間に、最初に考えていたことがまったく無駄になるようなところにすーっと進んで行くことがある。無駄になったゼロの状態のなかで、でもなにかが立ち上がっている。それを大きくしていくと、時にそれは「自分たちはこんなものを作ったんだ」というすばらしいものになることがあるのです。こういうことはよく起こるんです。これがないと、ものが立ち上がるっていうことが起きない。それを外から見ている人は全部勘違いするんですよね。

平尾
その感覚はわかります。僕が現場のリーダーとしてやっていた当時はもう死に物狂いですよ。結果だけを見て「追跡! 神戸製鋼を追いかけろ」みたいな報道のされ方をしましたが、そんなきれいなものじゃない、僕らのお家の事情でこうなっただけの話。僕らにモデルを見出してしまった人たちはまた「自主性」とか言い出していましたが、自主性なんて日本人にそうそうあるかと思うんですよね(笑)。そんな習慣ないのに。あったのは林さんとか大八木さんとか萩本光威さんとかの、いろいろな個性です。この人たちの良いところは、すぐ飽きるところでした。僕もそうです。

河本
なるほど。それはものすごく重要なことです。

平尾
飽きるという才能があるんですよ。誰も来年も同じことをやろうとは言わない。バックスがスペースにボールを動かすという基本姿勢になんらかの変形を加えていくと、これでいけるんじゃないかと思う時がくる。そう思いながら、毎年変えていくんですよ。連覇の秘訣は何かと言うと、前やったことに飽きることだって僕は言っています。とにかく飽きっぽい(笑)。

河本
これは面白いですね。子供はなにか面白い遊びを見つけたら一時夢中になってそればかりやっていますが、気が付いたらそれに飽きてまったく別のことをやっている。この夢中になる/飽きるという行為のパターンをもう思い起こせなくなっている。少し話が変わりますが、例えば100mや200m といった短距離アスリートの走りをヴィデオで見ると、ものすごく精確に足を上げ、地面を蹴って、きれいな走り方をしている。ところが100mを10秒台で走るアスリートたちに聞いてみると、地面を蹴ってはだめで、足は真上から下ろさないといけないと言う。飛び石づたいに真上からポーン、ポーンと足を下ろすほうがいい、あとは重心移動で走らなければならない。蹴ったりしたら全然走りにならないと言う。ところがヴィデオで見ると、きれいに足を上げて地面を蹴るんですよ。本人の持っているイメージと、外から見たときに見えてしまう実像の間のズレ。外から見ている人が神戸製鋼のあり方に必ず誤解からしか入れないというお話に通じます。誤解からしか中に入れないということに、すごく重要で難しい問題がある。