選択肢の広さと技術力

河本
一方平尾さんも詳しい将棋について考えますと、ここ2、3年顕著な傾向ですが、ものすごい早い段階、つまり3手目くらいからセオリーにない手を指すスタイルが見られるようになってきました。角交換を自分から行なうように、戦局を変えにいくわけですから、1手損なのです。後手でも自分から角交換に行くようです。自分から角交換に行けば1手損になります。だから既存のセオリーではやってはいけないことのひとつです。ところが後手が、2手損を承知で仕掛けていくこともある。あえてするこの2手損から何を得ているのかというと、それは先々の選択肢の広さなのだと思うのです。それがすごい。要するに駒は立ち遅れ、陣形が整わない状態が長く続く。勝負では致命傷に見えるのです。しかし選択肢を増やすことで、それ以降に組み立てのための組織力の可能性を持つことになる。将棋は今そういう局面にきていると思うのです。昔は、四つに組み合って、やがて駒がぶつかって、やがて夕方ぐらいから本気になって局面を読んでいくか、というようなものでした。ところが最近では3手目くらいから本気になって最後までを読むらしいのです。どうもこの選択肢の広さみたいなものに価値がシフトしはじめたという印象を受けています。出発点から一挙に選択肢を広げてしまって、そこからどう動かしていくかを考えていくシステムのようなのです。

平尾
選択肢というのは非常にいい切り口ですよね。僕はどちらかというと選択肢を増やしたいほうなんです。ところが、日本のゲームは、選択肢はあまり増やさずに極力狭い選択肢のなかでいかに確実にやっていくかという考え方が支配的ですよね。選択肢を狭めるほど確実な結果を生みます。ですから、精度を求めれば求めるほど、選択肢を広げることが求められなくなる。でも、ラグビーでも、サッカーでも、将棋でも、ゲームの本質からいうならば、基本的には相手との距離が極限的に縮まった時にどれだけ選択肢を持っているかということが重要で、それはつまり技術力の話だと思うんです。それができない場合に、相手の手が読めないで混乱したり、的が絞れずに守りきれないという結果になる。例えば今僕がボールを持っていて、河本先生との距離が5mあるとします。この時に僕はパスをする選択肢、蹴る選択肢、持って走る選択肢、コンタクトする選択肢を持っている。良いプレーヤーというのは、距離が近づいても選択肢を保てるプレーヤーなんですよ。悪いプレーヤーは選択肢を早く狭めたがります。次の局面で状況が変わろうが、その前に決めたことを実行するんですよ。対応力がない。しかし別の言い方をすれば、そうすることでコンタクトする時にはスピードもついているし気持ちも入っているから、非常に効果的ですよね。ところがですよ、高度化したゲームにおいては、相手も次の手に早く気づきますから、それに対する身構えをするんですよ。ゲームはどんどん高度化します。その時に求められるのが要するに技術だと思っています。

河本
訓練すればできることですか?

平尾
訓練はできますよ。ただし、選択肢を保つためには、具体的に体にスピードがないとだめです。瞬発力がないのであれば予め判断しておかないといけませんが、それでは高度なプレーができないのです。やはり根本的には身体的能力が関係する問題です。でも、いろいろな状況設定下でトレーニングすれば判断力は身につきますよ。こういう系統のトレーニングが日本人は下手なんです。

河本
それには何か理由があるのでしょうか?

平尾
まずひとつは、失敗に対する過度な恥の心がある。より創造的なものを生むよりも、失敗してはいけないという考え方がすべてにおいてあると思います。確実な結果を出すために、確実な用意をし、確実な判断をする。だから反復練習は大好きだけれども、シミュレーション型の練習はあまり得意ではない。技術論の代わりに型論が幅を利かせている。型の修得のためには反復練習はもっとも効果的ですが、大事なのはどのような状況でそれをするかなのです。ボールを遠くまで蹴るプレーヤーはいっぱいいますが、そのボールを「いつ」「どこ」に「どれくらい」の力で蹴るかというのが判断力。この2つを持たないと技術にはならない。

平尾
例えばメジャー・リーグの中継を見ていて、「よくこんな格好でホームランが打てるな」と感じるプレーヤーがいっぱいいますよね。あるいは「よくこんな格好で投げているな」と。つまり、日本のバッター、ピッチャーはものすごく型がきれいなんですね。その典型がいわゆるきれいな「巨人野球」をする巨人のプレーヤーですが、強制しないとああはならないはずです。そもそも、自分の力が一番出やすい型が皆同じであるはずがない。それに沿ったシナリオづくりや人材の育て方が不足しているという感じを受けます。

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個の力が出やすいシステム

平尾
そうですね。野球で言えば、ボールを打つということが本質ならば打ち方はさまざまであっていいはずです。個々に腕の長さが違ったり、腕力が違うことによって、自ずと変わってきます。けれども、そういうことがあまり考えられていない。僕はいつも疑問に思うのですが、日本の打撃練習において素振りはとても重要ですよね。ボールを打っていないのに打撃練習をしているというのが逆にすごいなと思う。だから日本人の素振りはきれいですよ。無駄がないし、合理的な軌道を描いているかもしれません。息の整え方に至っては武道的ですらありますよね。ところが、外国の選手は打ち方がさまざまです。打つという本質を外さずに、それぞれの一番良い方法を見つけているからです。この違いは教育をはじめ、組織論などの根本的な部分に共通してあるのではないでしょうか。

河本
僕が理想的なイメージとして考える、組織で力を発揮するシチュエーションは、例えば何かプロジェクトを立ち上げた時に「これは面白そうだな」と誰かが言ったとします。それを聞いた上司はその人物に必要なだけの人をつけて走らせてみる。さらに人が必要になれば、その動きに参加できる人をどんどん巻き込んでいく。要するに、会社内で仕事を2つか3つ持っていて、動きに上手く参加できない人は自ずと外れて、また別のかたちで与えられる仕事に戻っていく。そういうシチュエーションが良いシステムを形成するのだろうと考えています。プロジェクトの立ち上げの時に、予めすべて作戦を練って決められた役割に沿ってみんなで最後までやりましょう、というのではなく、このプロジェクトに参加するか、別のプロジェクトに参加するかという選択肢が保持されている状態と言ってもいい。時には2、3人で回していくこともあるし、またある時は10人ぐらいで一挙に動けるだけやってみる。こうして一番結果が出せるシステムとは、翻って個々の力が出やすいシステムなのではないかというイメージを持っているんです。

平尾
よくわかります。個人と組織の関係はそういうものなのでしょう。一方、どうも僕ら日本人は「やらなければならない」ことが強くあればあるほど「やりたい」気持ちが減っていく。おっしゃるような柔らかい仕組みのなかで、本人たちの内発的なモチヴェーションがベースになりながら仕事をすれば、何か今までになかったものが発生していきます。そういう楽しみは柔らかい組織内でのほうが圧倒的に起こりうると思います。でも、日本人にはどうもそれができない。極端を言えば「生きるか死ぬか」に追い込まれないと力が発揮できないと思っている人もいる。最近はだいぶ変わってきているとは思いますが。

河本
ええ。その場合、評価が非常に問題になる。つまり、誰か外にいる人がちゃんと「あいつがリーダーとして引っ張ってくれた」と言えればいいのですが、たいしたアイディアも出さずサポートだけをしていて「ずっと一緒に仕事をしたんだから同じ評価をくれよ」と言う人が出てきてしまう。または、自分に適した仕事の割り振りがなかったから自分の力が発揮できなかったという言い訳が出てきてしまう。例えば、みんなが0.8の力を出しているときにあいつは1.6出した、といった評価を誰かがきちんとかたちにしてくれればいいのです。けれども最後になって、これは一応皆の力で終わったのだ、皆対等によくやったということになる。形式的にはその通りだと思いますが、形式のもう一歩先のところで「あいつは難しい場面を乗り超えていく構想力を発揮した」とか「彼は今回は採用されなかったけれども良いアイディアをいくつも出した」といった、もっと細かい評価基準を持っていないといけないのではないか。