映像をめぐる7夜

あり得べき「映像」体験を希求めて

岡村 恵子

そもそも日本語の「映像」という語の示すところは多義的で、テレビや映画などの動画[moving image]の意のみではなく、光の屈折や反射によって映し出されたものの形や姿[reflection]であり、また頭の中に浮かんだものの姿[image]をも差す。この7夜は、決して「映像」とは何かを突き詰め限定するためのものではなく、「映像」をキーワードとしつつ、その概念を拓くことを企図するものだ。多種多様化する映像体験のチャンネルすべてについて言及するには7夜ではとても足りないが、多彩なゲストそれぞれの立場や関心からあり得べき「映像」が、掘り下げられ、試みられ、提示される。そのなかに見出されるいくつかのキーワードを、まずは鑑賞の手がかりとして挙げてみよう。

第一に、ライヴ・イベントであることにより、始まりと終わりがあるということ、すなわち時間性が強調される。鑑賞者は、映画や演劇を見る場合と同様に、用意された時間の流れに身をゆだね、複数の要素が絡まりあいながら空間に堆積する時間そのものを共に体験する。また、同じく時間性を内包するジャンルである「音楽」、あるいはより広義には「音響」の位置づけが重視される。実のところ、実演あるいは音源提供のかたちで参加する足立智美、山川冬樹、渡邊ゆりひと、有馬純寿、山本精一、角田俊也および音男は、音楽家あるいは音響分野のアーティストとして知られている。ホーメイの歌い手でもある山川の手がける映像作品においては、「声」が映像を喚起する。渡邊・有馬による音は、狩野志歩の手になる映像に呼応し、ともにリアルタイムに編集・操作され、刹那に一つになる。生西康典と掛川康典は、映像に角田と音男による2種類の音源を立体的に組み込み、ライヴ演奏にあたる山本の感性を挑発して未知の音を引き出そうとしている。いずれの場合も、親和性を持ちつつも、完全には制御できない他者としての「音響」が、映像体験の奥行きを深める働きを為すこととなるだろう。

もうひとつのキーワードは身体性だ。まずは、鑑賞者の側の身体性。映像はメディアを介して送出されることから、一般には、対象と一定の距離をとってみることが可能だが、今回の鑑賞者は、用意された空間に身を置くことで、視覚のみに拠らず複数の感覚を駆使して映像を享受することになる。第4夜の「フリッカー・ナイト」は、明滅する映像表現を特集した上映プログラムだが、視覚に与えられる刺激が、鑑賞する身体のコンディションにいかに作用するかを考える絶好の題材でもある。

そこに作り手の側の身体性も絡む。例えばさまざまに映像と知覚の問題を問うてきた飯村隆彦は、自らの顔を大胆に誇張歪曲した映像を記号的に使って、見ることと知覚することのずれを問い、豊嶋康子は自らの身体でそれをライヴに受けとめながら、さらに違う次元でのずれを体現し提示するという。また画家としてライヴ・ペインティングを試みるなかで、描画行為の軌跡自体をそのままに提示したいという欲望からコマ撮りのアニメーションという形式に行き着いたという石田尚志の作品の場合、描線そのものがまとう有機的な動きと量感が、生身の肉体により制御され産み落とされた質として圧倒的な存在感を放つ。盟友足立智美は、自作楽器や装置を駆使しながらの即興パフォーマンスで知られ、今回はその演奏を映像としても「出力」する。山川冬樹のパフォーマンスも、心拍音を自ら制御して音源としたり、骨伝導マイクによって身体を打楽器のように扱うなど、テクノロジーを用いながら身体の拡張を試みるものだ。ゲストの生身のプレゼンスだけでなく、作品に内包されるそうした身体性は、少なからず鑑賞者の身体に働きかけ、ある種の共振を促すだろう。

付け加えるならば、ジャンルの問題がある。第2夜にあえて、広告というフィールドにおける映像をとりあげたのは、ひとつには映像を発信・受容するチャンネルが多種多様化している現在を考えるにつけ、マスを相手にしたフィールドとのリンクを残すことで、この7夜という場が自閉することを避けたいと意識したからだ。また今回、「映像」という大枠はあるものの、成果としてはジャンル横断的なプログラムが多いなか、一方でジャンルの問題も大切に考えたかったからでもある。ジャンルは必ずその成り立ちの歴史を持ち、制約ともなるが、それゆえに創造のエンジンにもなりうる。制約を壊し去る創造性もあれば、眼前に立ちはだかる制約を受け入れつつも、それを突き詰めることで内側から拓く創造性もあるはずだからだ。

美術館という空間に動く像[moving image]としての映像が持ち込まれるようになって久しい。展示室の一角に設えられたスクリーンやモニターでループ上映される場合、立体的な造形あるいは空間構成の一要素として組み込まれる場合、またネットワーク回線上に生成する事象を作品に取り込むものなど、その形状は様々だが、いずれも展示の中心的な要素として扱われる機会がますます増え、そのことに対して違和感を抱くこともなくなりつつある。

今回会場となるのも美術館の展示室だが、複数の時間と視点が錯綜する展覧会という形式の代わりに、空間と時間を限定したライヴ・イベントの連続開催をあえて選んだ。7つのプログラムは、それぞれに独立した時間と空間を一夜ずつ刹那に与えられる。単一のスクリーンに映し出される映像もあるが、総じて時空間そのものを多層的なスクリーンとして構想されたパフォーマンス的要素を持つ。複製可能性や媒体の変換可能性といった映像メディア特有の軽やかな性格を敢えて棚上げにし、送り手と受け手双方をしばし拘束したうえで、その状況下でのみ成立し、やがては消え去る質に固執したい。

それは、手のかかる物理的な箱という時代遅れのメディア(=美術館)に瑞々しい生命をつむぐひとつの手がかりでもある。旧来物質的な作品を取り扱う場所として発達してきた美術館という制度が、映像をともなう作品の非物質性とどう折り合い付き合っていくかにはまだ多くの課題があろうし、20世紀的なオリジナルとコピーの二元論では、今日の映像の流通はとても語りきれない。それでも美術館がオリジナルを提示する場所を志向するなら、そのカギはオリジナルな受容体験のための環境を用意することに見出せるかもしれまい。

それぞれ異なるアプローチで、しかし執拗に映像とその知覚の質、あるいは肌理とでもいうべきものを描き出そうというこの7夜の試みは、決して携帯電話の画面や雑踏の中で垣間見る街頭モニターでは再現できないだろう。過剰に提供され簡便に享受される「情報としての映像」からひととき距離をとって、特別な場所に身をおくことで「生きられる映像」。そして人々の記憶というもうひとつのメディアで繰り返し再生される「映像」体験を希求(もと)めてやまない。

おかむらけいこ/東京都写真美術館 学芸員

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