真夜中の学校や遊園地ほど不気味な場所はない。昼間の賑わいとの激しい落差が非在と空白の感を際立たせるからだ。空白はいずれ埋められなければならない。だが、いったん人の気配を消し去った風景には、一種冒しがたい厳粛なアウラが宿る。〈ない〉〈いない〉ことと、〈ある〉〈いる〉こととは言うまでもなく補完し合う関係にある。だが、非在は時間の上でも空間の上でも存在のそれを圧倒し、その厳粛さ、崇高さにおいて存在を絶えず威圧し脅かしているのではないか。私たちは無意識のうちにそのことを怖れている。誰もがそんな根源的な不安に脅えながら、あやうく生きているのだと言えるだろう。フロイトによるfort/da(いない/いる)の解釈も想起されるところだが、それは世界から取り残されることへの不安であるばかりではない。自分が引き剥がされてしまった後の〈いない〉世界を想像する不安でもある。存在も非在もそこではとてつもなく深い淵を孕んでいる。
子供たちはこうした恐るべき不安を言語化できないにもかかわらず、大人たちよりもはるかに敏感にそれを感じ取る。友だちと手をつないで帰る道の長からんことを祈りながら、しかしそれがどこかで必ず尽きることを知っているからこそ、つないだ手のぬくもりが温かい。そんな子供たちはしかし成長して、さらに容赦のない切断と空白に堪えることを求められるだろう。時のめぐりは永遠には続かない。《お月さま》と《金の星》が見下ろす無人の風景、その空白をすぐには、あるいはもう二度と満たすことが出来ない自分を、受け入れなければならない。旅立ちとは、あるいは別れとは、そのように残酷にやってくる。
時々前触れもなく思い出される風景がある。その部屋の窓からは、長い階段が山寺の山門まで延びているのがきれいに見えた。暮れ方の6時になると、まどろむ私の耳に必ず鐘の音が聞こえてきた。その鐘の音を聞いたら、そこから帰らなければならない。鐘の余韻とともに途切れもなく胸のうちに繰り返されたのが、「夕焼小焼」の歌だった。
岩波文庫の与田凖一編『日本童謡集』(1957)には、〈夕焼小焼〉と歌い出す童謡が三篇収められている。中村雨紅・作詞/草川信・作曲のこの「夕焼小焼」、それに三木露風・作詞/山田耕筰・作曲になる名作「赤とんぼ」、それから米村健・作詞「夕焼」という歌だ。子守娘という職業が消えた今日、「赤とんぼ」はもっぱらその美しいメロディの中に息づいている。お嫁にいってから音信もなくなった〈姐や〉。その思い出が、負われた彼女の背中のぬくもりが、夕焼けの中の赤蜻蛉に転移されているのだが、《夕やけ小やけの/赤とんぼ/とまっているよ/竿の先》とあるように、それはまぼろしではなく、夕焼け色にかがやかしく重ね塗りした光彩を放って、それはたしかに、そこに〈ある〉。《とまっている》は〈止まっている〉のであり、空間的のみならず時間的にも静止した状態を示して歌は終わる。
これに対して「夕焼小焼」はその後の空白の風景を歌う。すでに過ぎ去り失われてしまった子供の時間を歌う「赤とんぼ」に対して、「夕焼小焼」は、過ぎていくことを、失われていくことを、その〈後〉を歌うのだ。帰るべき家があり、ぬくもりが別のぬくもりへと受け渡される、そんな日常の時のめぐりが、いかに傷つきやすくはかないものであるかを、この歌は教えてくれる。 今でも夕方6時になると、この歌のメロディを拡声器で流す地域も少なくないと聞く。星の中でも明るいはずの《金の星》すら見えにくくなってしまった現代の都会の夜空だが、私たちに失われていくぬくもりをいとおしむ感受性があるかぎり、まだまだこの歌の命は尽きることはないだろう。