伝書鳩がこのてのひらにとまって、
「おわればいい」
という風景がわたしの脳裏にやきつく。まっしろな木綿でつくられているような伝書鳩が、光をもたない真っ黒な眼球で、
「おわればいい、早くおわればいい」
と言って、わたしはもう何も言えずに視線をそらしたらそこは夏の庭。洗濯機が何度も回転している。
そういうのって心象風景、とかんがえながら、わたしのてのひらに伝書鳩がとまったということは現実にはおきていないので、あるときにみた夢の断片なのかもしれない。わたしの脳裏がわたしの脳裏に埋めこんだ現実としての映像なのだとおもう。

デジャブをみたひとがいた。そのひとはサックスプレーヤーで、地下にもぐっているやたらと響くその場所で、ソロで演奏している最中、唐突に演奏をやめて、
「あ、デジャブ」
とだけ呟いて、また、つよく、吹いた。それはテナーサックスだった。
そのひとにはその瞬間、客席にいるはずのない昔馴染みの友人があらわれたのがわかり、演奏をするそのひとに友人は近寄り、 「お前、何やっているんだよ」
と笑いかけたそうだ。
あ、この風景はしっている、あ、この記憶はたしかに残っている、だから、あ、デジャブ。友人は客席にいるはずがなかった。

そういうのってもう詩なんだとおもって、わたしは文字を綴る。映像とは目覚めたままにみることができるつくられたもので、その感覚は詩とも近しいのかもしれない。わたしのかんがえる詩とは虚構にあふれているものだ。虚構にあふれてはいるのだが、それは日常から派生していて、わたしたちは目をあけたまま生活をきりとり、それを虚構とするために文字を綴る。


小学生のとき、何の授業の一環だったか、黒澤明監督の「夢」を観た。小学生であるわたしにはそれはだいぶんおそろしい映画におもえて、ずっと意識の根底にはりつき、大人になってからもそのおそろしさを解明しようと何度も観た。大学では映画を学んでいたものだから大学の授業中にも観た。その映像の持つ印象は小学生のころのものと同じで、だいぶんおそろしくはおもえるのだが、こんなにうつくしい映画はほかにあるだろうか。現実では感じることのできない風景に、現実では感じることのできない物語。題名の通り、夢、が連作としてひとつになっている、とは大学の授業でようやく知った。幼いわたしが「おそろしい」と感じた理由は、じぶんではないひとのこころの底をのぞいてしまった、という感覚で、そのおそろしさは鳥肌がたつほど美しい。じぶんはじぶんの眼球しか持っていないものだから、じぶんではないひとの意識や想像や物語が、可視化されてつきつけられてしまったら、おそろしく、美しく、太刀打ちできずに、それはもう現実ではないすばらしい虚構となる。
どんな鳥だって想像力より高く飛べることはないにしろ、その想像やイメージや夢を映像にせよ文字にせよ現実として、提示しなければわたしたちはその夢を感じることはできない。だから、わたしたちはあたらしい物語として、提示するのだ。


脳だけではなく、からだの様々な部位が、指先が、鎖骨が、乳首が、背骨が、毛髪が、内蔵が、眼球が、細胞ひとつひとつがそれぞれに生命をもっていてそれぞれに夢をみるならば、わたしはそれらが集合していることによりつくられていて、文字を綴る。細部がそれぞれに持つ記憶がまじりあって現実では起こりえない記憶としてからだが認識して、その記憶を、わたしは現実からはじまった虚構として、文字を綴る。提示する。
「そんなに夢がみたいの」
 と伝書鳩が問う。
「夢はみたい」
 とわたしが答える。
「何をみたいの」
 と伝書鳩が問う。
「現実となった夢として、みたい」
 とわたしは答えるが、それは答えになっていない。
「おわればいい」
 と伝書鳩が言う。そして視線をそらせばそこは照りかえす夏の庭となる。
 わたしの全身が記憶しているその風景が現実にはない。洗濯物が乾きすぎている。