記憶のなかの映像

僕は1951年生まれなので、初めて映像に触れたのはテレビでした。家で初めてテレビを買ったのは5歳くらいの頃だったと思います。当時はまだ放送時間が短く、お昼くらいから始まり夜の早い時間に終わっていました。その時は、アメリカ製作のドラマや西部劇が多く、60年ごろからカートゥーンも増えました。ドラマはまだ生放送があった時代ですが、記憶に残っているドラマはほとんどアメリカもので、「ザ・ルーシー・ショー」や「奥様は魔女」などは、生放送ではなく映画のように編集して放送していました。最初に見たテレビドラマは「ローン・レインジャー」。テレビも映画も、当時は西部劇が全盛期で、よくその動作など真似していました。
その時の体験は、今でも影響を受けたと思っています。映像は潜在意識として強く残る。音も残るけれど、映像の力はものすごく強くて、子供の頃に見た映像は、おそらく一生抜けないでしょう。映像自体に「夢」が描かれていないにしても、人に「夢」のようなものを与えるということは間違いなくあると思います。
レコードを買い始めたのは9歳か10歳の頃です。お小遣いだけでは欲しいものが買えないので、15歳から新聞配達のアルバイトを始めました。それを全部レコード代に充てていました。まだ宣伝用のヴィデオ・クリップというものがない時代でしたが、音楽に映像がつくとイメージが固定されてしまうので、映像がない方が、かえって想像力が自由にはたらいたのではないかと思います。

ジェリー・ガルシアが奏でる“夢”

サイケデリック・ロックの時代といわれる60年代の後半は、音楽を作っている側も聴いている側もマリファナやLSDをやっていた。それが良いことかどうかという道徳的判断は別として、想像力が自由にはたらくという意味では、効果的なものだったのではないでしょうか。聴き手はやらなくても、作る人がやっているから、随分と夢のような情景が描かれていく。歌詞もそうですし、どんどん長い曲が作られるようになる。ジャズの影響もあります。ハイの状態で演奏すると、延々とギターソロを弾いたりする。場合によってはそれが聴いていてつまらないこともあるけど、才能のあるミュージシャンはどんどん飛躍していって、聴き手を夢のような旅に連れ出してくれます。
たとえばグレイトフル・デッドというバンドにジェリー・ガルシアというギタリストがいました。彼のギターは本当に自由気ままで、しかもメロディの感覚を逸することなく“飛んでいく”。宇宙を彷徨っているときもあれば、ひたすら明るくメロディの展開が自由にいくときもあり、さまざまで聴いていて面白いです。

現実(リアリティ)を再構築する

テレビ世代のせいか、僕はファンタジー色の強いものより、リアリズム色の強い方が好きなのかもしれません。とはいえ、若い頃、ドキュメンタリーはほとんど見ていなくて、劇映画の方に魅力を感じていました。ドキュメンタリーをたくさん見るようになったのは、大人になってからです。1988年に「CBSドキュメント」の出演を頼まれて、それから意識して見るようになりました。今もノンフィクションは好きです。
ドキュメンタリーには色々なものがあって、何年も被写体を追って作品にした“記録映画”と呼べるものもあるけど、編集の手が入ると、その時点で単なる記録映画にはなりません。作り手が言いたいことを伝える媒体になるわけです。2009年に『マン・オン・ワイヤー』という映画が公開されました。今はなき世界貿易センターにワイヤーを通して、その上を綱渡りで歩いた大道芸人フィリップ・プティの偉業をとらえたドキュメンタリーですが、当時の記録映像が残っていないため、一部再現映像が入ります。どのようにして偉業を成し遂げたのかは、“つくられた”映像として構成されるのです。


越境するリアリティ/ファンタジー

面白いフィクションはリアリティがベースになっていることが多いように思います。でも、リアリティのあるストーリーでも、突拍子もない展開ってありますよね。ジョン・アーヴィングの小説みたいに。ストーリーが普通に展開しているかと思ったら、突然、誰かが死ぬ。それによってストーリーが脇道にそれてしまう。そういった面白さも好きです。
つい最近見たケン・ローチの『エリックを探して』は、現実とファンタジーを見事に組み合わせた映画でした。基本はいつものローチのリアリズムの世界で、マンチェスターの貧しい労働者階級――離婚して長いこと独り身で、人生がどん底でほとんど鬱状態に近い郵便配達の男が主人公です。彼にとって唯一の救いはサッカーで、エリック・カントナが大好き。カントナの名プレイが彼の記憶にばっちり入っている。彼のベッドルームにはカントナの大きなポスターが貼ってあって、それに向かって人生の悩みをああでもないこうでもないと話していると、ある日カントナ自身が部屋に現れ、彼にアドバイスをするようになる。彼は小心者で、やりたいことができない性格です。でもカントナは「やれ」と励ます。夢みたいなエピソードですけど、幻想的なタッチではなく、なにしろカントナ本人が出演するので、まるで現実のように描かれる夢なのです。なんともイギリスらしい表現ですが、ローチにしては珍しい描写です。
いかにも夢っぽい表現をしたものは苦手ですが、ある種リアルな夢の体験としての映画には惹かれます。この映画を見て、映画は現実と夢の話を効果的に表現できる媒体だと思いました。もちろん本でもそうしたことは表現できます。たとえばフォークナーの代表作のひとつ『響きと怒り』は障害児の目から見た南部の世界が描かれていますが、冒頭の語り口は夢のような世界でぐいぐいと引き込まれます。でも、やはり映画の方が入り込みやすいかもしれません。僕は映画館の暗闇が好きで、面白いと100%没頭して見てしまいます。映画館というのは外の世界から完全に離れ、日常生活のことを忘れる空間。そういう意味では、夢の世界といえるのではないでしょうか。