私たちはTwitterで日々の些細な出来事をつぶやき、Googleストリートビューを使って目的地の確認をするなど、さまざまなウェブサービスを日常的に使うようになっている。インターネットが当たり前になった後に作品を制作する「ポスト・インターネット」世代の作家たちは、ネット上の画像を集め、Twitterで展示を告知し、作品をJPEG画像に変換し、Tumblrで流通させるなど、ウェブを巧みに使いこなし、アートの世界に「インターネットの感覚」を持ち込んでいる。そのひとつにネット上で曖昧になりつつある「私」と「公」の区別がある。そこで、私はこの「私/公」をめぐる問題を、TwitterやTumblrなどのウェブサービスを用いた作品から考えてみたい。

リツートで「私」をつくる
私たちは、日々「つぶやく」ようになっている。日記にも書かないような極私的なことをTwitterに書き込む。ツイートされたテキストはとくに意識されることなく「私から公へ」とシフトしていく。軽い感じで「私」と「公」のあいだを跨いでしまうのは「1ツイート140文字以内」というTwitterの制限によるところが大きい。システムの都合で決められた「140文字以内」という制限が、ヒトの気持ちに大きな影響を与え、ヒトとシステムのあいだにTwitter特有の「軽さ」を生じさせる。これほどまでに軽い気持ちでテキストを「公」に向けて書くことがあっただろうか。たとえそれが、ツイートを「私的でクローズドなもの」と思い込んでいた結果だったとしても、いや、設定を変えない限りツイートは「公的でオープンなもの」であるにも関わらず、それを「私的なもの」だと認識してしまうことこそが、Twitterの興味深い点だといえる。Twitterは「私」と「公」とが入り混じったグレーゾーンを切り開いたと言えるのかもしれない。

DJぷりぷり{浅草橋天才算数塾}の《金太郎》(2011−12)[*1]は、Twitterとともに生じた「私/公」がミックスされたグレー領域における行動の記録と呼べる作品である。DJぷりぷりはお伽話に登場する架空の存在「金太郎」の格好をして生活する。その姿ゆえに、「え、ちょっと待って、バイト先の店の前に金太郎さんがいる!」[*2]などとつぶやかれる。多くの人にとって誰かのツイートの対象になることはまれであるが、DJぷりぷりにとっては「(ネットに情報が上げられるのは)日常になっていまして、他の人だとそれが恥ずかしい行為だと思うんですけど、それが普通」[*3]なのである、このことは有名人や芸能人と同じかもしれないが、DJぷりぷり自身はツイートされても公には無名に近い存在である。けれど、DJぷりぷりは「金太郎」目撃ツイートを検索して探しだし、それらをリツート(RT)して自分のタイムライン(TL)にまとめ、ネット上で「DJぷりぷり=金太郎」として有名になる。DJぷりぷり《金太郎》2011「[インターネット アート これから]」展のためのTwitterアカウント@ICCkintaroのスクリーンショット
リツートに関して、「映像圏」というあらたな概念を提唱し、ウェブと映像表現との関係を積極的に論じる渡邉大輔のテキストを引用したい。

例えば、RT。フォーマットごとの細かい機能・表示の違いなどを無視して、ざっくりとした外見だけで述べると、とりわけ他人のツイートをそのままRT(選択)し、自分のタイムライン上に表示する公式RTのツイートは、その前後に流れる自分自身がつぶやいた極私的なツイートの間で、いわば「自分」のものでも「他人」のものでもない、どこか距離感覚の曖昧な、複数的(あるいは非人称的)な相貌を帯びてユーザの前に立ち上がってくるように見える[*4]。

RTの感覚が「私/公」の区別の溶解を示しているとする渡邉の見解は、《金太郎》という作品を考えるためのヒントを与えてくる。DJぷりぷりはTwitterのつぶやきが示す「私から公へ」というシフトのなかで、自らをツイートの対象=「金太郎」として晒しながら生活し、他人のTLへ紛れ込んだ「金太郎」という1ツイートを掬い取り、RTする。それは、TL上で1ツイートごとにネットに拡散していく「自分」でも「他人」でもないような「金太郎」という印をもった「私」を集めていく作業といえる。この作業を延々と続けることで、DJぷりぷりのTLには彼自身のツイートとRTが入り混じり、「金太郎」という名の下にあたらしい「私」がつくられていくような不思議な感覚が生じるのである。
ICCでの展示風景 撮影:木奥惠三 写真提供:NTTインターコミュニケーション・センター [ICC]
「〇〇に金太郎がいた」とDJぷりぷりがRTすると、GPS機能でその場所近辺の写真がでて,「金太郎」があぐらかいて座っている映像とともに表示される。撮影:木奥惠三 写真提供:NTTインターコミュニケーション・センター [ICC]

遍在する「私」からあたらしい「私」をつくる
DJぷりぷりの《金太郎》が、自分のツイートだけでなく、他人のツイートのなかにも「私」が存在することを示すように、「私」はネット上のどこにでも存在している。それはTwitterだけに限ったことではない。Facebookの「いいね!」の集積や、Googleの検索履歴のなかにも「私」は存在する。ここでの「私」は「いいね!」と押したときにカウントされる「1」や、何かしらの単語で検索するという行為にすぎず、それは今までの感覚では「私」と考えられるものではないかもしれない。しかし、それはネットに拡散し、ネットを形成するインターネット由来の「私」なのである。さらに、この「私」は監視カメラやGoogleストリートビューのようなシステムによって、本人が関知しないところでネットに上げられてもいる。ネットに拡散していく「私」の流れは、もう止めることができない。このプロセスが示すのは、リアルな私との強い結びつきをもつ「濃い私」からストリートビューに写り込んでしまったような限りなく「公」に近い「淡い私」まで、ウェブにはさまざまな「私」が拡がっているということである。そしてそれは、ネットには「公」な存在などなく、すべてものが「私」の一部となり得ることを意味する。 「私/公」の二分法を超えて、「私」がその存在の濃淡を示しつつネットに拡散し、遍在しているのである。そして今現在、サーバー管理者や検索サービスから個人情報を削除させることができる「忘れられる権利」が提唱されなければならないほど、私たちが「私」のコントロールすることが難しい状況にある。だからこそ逆に、ネットに遍在するようになった「私」を、DJぷりぷりのように積極的に利用して、あたらしい「私」をつくることが必要なのである。

以下、あたらしい「私」のつくり方を提示するいくつかの作品を見ていく。まずは、「私」をつくるわけではないが、あたらしい「私」の前提となるネット上に拡散する「私の濃淡」を感じさせる作品、谷口暁彦の《First Person Ustreamer》を取り上げる。そして、田村友一郎の《NIGHTLESS》から、Googleストリートビューという自分ではない誰かの集合から「濃い私」をつくる方法を探る。最後に、「リブログ」という機能を持つTumblrがあたらしい「私」のつくり方のひとつとして、他人によって「私」が形成されることを良しとする流れを作りだし、パーカー・イトーがそれを強く意識して、アートの世界に導入していることを示す。

「1」と「2」のあいだにある「私」
谷口暁彦の《First Person Ustreamer》(2012)[*5]は、「Ustream」という誰でもネット上で生放送ができるサービスを利用した作品である。谷口は多くの番組から、鑑賞者がひとりのものだけを選んで見せ、「1」という存在の体験を作品化する。そこでは誰に見られることもなくネットを漂っていた「淡い私」が、突然「濃い私」に変わる。視聴者数の「1」が、見ている人にそして放送している人に「私」であることのプレッシャーを与える。さらにこの作品は、谷口が「これが(視聴者数)「3」とか「4」とかになっていくと、〈私〉が薄まってくる感じがするっていうか」[*6]と述べるように、「私」の濃度の薄まりも体験者に与える。谷口の狙いは「1」という「濃い私」を体験させることにあるのだが、それと「1」が「2」になる際の緊張の弛緩とともに生じる「淡い私」が合わさることで、《First Person Ustreamer》はネットにおける「私」のグラデーションを実感させてくれる。そして、「1」と「2」のあいだにある「私の濃淡」が現在のネットの基底となり、「私」をどこまでも拡散していくのである。
谷口暁彦《First Person Ustreamer》2012年

「1」という存在になることは、「私」の拡散のはじまりである。最初の「いいね!」や「友達リクエスト」、すべてはそのひと押しからはじまる。そこには、ウェブ上で自分がその対象を最初に評価する、誰かとつながりをもつという責任がある。しかしそれは一度行われると、次々とボタンが押され、「1」は「2」になり、「2」は「3」となっていき、この流れのなかで「私」の濃度ともにその責任も薄まっていく。そして、「ソーシャル」という言葉がもてはやされる現在のネット上では、「1」の存在のまま重い責任を持ちつつづけることは難しく、誰もが「2」以上の無責任な「私」になっている。「無責任」と否定的なことを書いたが、だからこそウェブは、「私」であることの責任から逃れ、あたらしい「私」をつくる実験場になっているのである。

「私」の断片の集合
Googleが提供するサービスのひとつである「ストリートビュー」は道路沿いの風景を撮影した画像を地図にプロットして表示することで、地図をより便利にする機能である。同時に、普通の人の生活を公的なものに変換していく装置とも考えることができる。なぜなら、生活している人やその家が突然撮影され、その画像がネットに上げられるからである。それもそこには特別な意図があるわけでなく、地図に描かれた道路に沿って、その風景が淡々と撮影され、画像データとしてあげられていく。それは世界を情報化していくひとつのプロセスとして行われており、Googleにとってはそこに何が写っていようがあまり関係がない。その無関心において、私的なものがキャプチャーされ、公的なものへと変換されていく。

ストリートビューは「私/公」とが入り交じったグレー領域をつくり出している。しかし、ストリートビューをさらにスクリーンショットで撮影し、自らの作品として提示する田村友一郎《NIGHTLESS》(2010)[*7]の場合はどうであろうか。田村はストリートビューの画像を使って、ひとりの男の「私」的な物語を描く。この作品のテーマを「非主体的イメージ(anonymous)への主体性(aura)の挿入の実践」[*8]だと、田村は書く。それは、ストリートビューでどこの誰かもわからないほどに濃度が薄まった「私」を、あらたな「私」に取り込んでいく作業だと考えることができる。その際に、田村はストリートビューのどこかに入りこんだ匿名でありながらも「私」の濃度が濃い画像を見つけだし、主人公の最も私的な「夢」として組み込む。田村はストリートビューを「私」の断片の集合として眺め、その濃淡をスキャンしながら組み合わせて、そこに「主体性=濃い私」を生み出しているのである。
田村友一郎《NIGHTLESS》2010年

しかし、ここで生み出された「濃い私」とは、一体誰とのつながりが「濃い」のであろうか。田村か、映像の主人公か、それともGoogleストリートビューか。ここでの「濃い私」はそのどれともつながってなく、「田村友一郎」というフィルターによって絡め取られた無数の「私」の集合としか言えないものである。そもそもネット上での私たちは、情報の流れを整理するフィルターの役割を負っている。例えば、Googleの検索アルゴリズムである「ページランク」は「リンクをはる」という人の行為に着目することで検索結果の精度を向上させたものであり、Facebookの「いいね!」も人の評価を結びつけて価値を生み出している。ならば、ネットに接続する無数の「私」によってフィルタリングされた情報=私の断片を、さらにフィルターにかけることで記される「物語」があるはずであり、そのひとつが《NIGHTLESS》なのである。そして、ここで行われている検索結果などが示す自分ではない無数の誰かの「私」の集合を、特定のフィルターを通してひとつの「私」に統合していくという行為は、GoogleやFacebook、そしてTwitterとも異なる価値観を生み出しつつあるTumblrにつながるものなのである。

リブログが「私」をつくる
これまで見てきたように、さまざまなウェブサービスが形成する「私/公」のグレーな領域を利用し、そこからあらたな「私」をつくりあげる試みが始められている。そしてこのプロセスをシステムとして取り込んだのが、Tumblrの「リブログ」だと考えられる。Tumblrはブログサービスのひとつで、「リブログ」は簡単に言ってしまえば他の人のテキストや画像などを自分のブログに「転載」できる機能である。もちろんそこには著作権の問題が絡んでくるわけだが、Tumblrの創設者のディヴィッド・カープは次のように述べている。

ウェブ上の新しいクリエイターたちの間で、著作物に対する新たな感覚が生まれつつあることは重要だと思う。会社やブランドのアイデンティティを、第三者が広めていくということが今までにない規模で行われている[*9]。

カープの言葉から考えると、リブログによって「アイデンティティ」がつくられていくプロセスは以下のように考えることができる。「私」がネットに発したものを、誰かが「公」ではなく「私」のものとして眺め、その人の「私」の断片としてリブログする。この流れのなかで、「リブログする私」と「リブログされる私」というふたつの「私」が形成され、そのあいだにあった「公」がなくなっていく。ここで興味深いのは、「リブログする私」と「リブログされる私」の双方において、一度他人のフィルターを通したものが「私」の一部を作りあげていくということである。

「ネット・アーティスト」と呼ばれることが多いパーカー・イトーは、このあらたな「アイデンティティ」のつくられ方を敏感に感じている。2012年に開催した個展「The Agony and the Ecstasy」で反射性素材を用いた作品を展示した[*10]。キラキラと反射する作品は、見る角度によって表情を変える。それを体験するにはギャラリーに直接いくしかないのだが、イトーはホームページに個展での記録写真、制作風景やパーティーの写真を大量に掲載してもいる[*11]。それらはすべて誰かにリブログしてもらうためである。イトーは、スマートフォンで撮影されFacebookに上げられた低解像度の作品画像や、その画像へのLikeやリンクもギャラリーでの展示作品と同列に扱い、それらが延々とリブログされることを望む[*12]。作品はケータイで撮影され、Likeされながら流通し、リブログされていく。この流れは自分ではコントロールできない、しかし、Likeやリブログによって作品が「薄い私」として自分でない「私」の一部を作りあげながら拡散していき、その結果として、常に更新される「パーカー・イトー=濃い私」が形成されていくことが重要だと、イトーは考えているのである。
パーカー・イトーのホームページに掲載さている個展「The Agony and the Ecstasy」の展示風景
パーカー・イトーのホームページに掲載さている「The Agony and the Ecstasy」展に関するドキュメンテーション画像

2007年にスタートしたTumblrが2012年になって注目を集めはじめているのは、この5年間のあいだにTwitterやFacebook、Googleのストリートビューなどのウェブサービスを体験するなかで、私たちのネット上での「私/公」への意識が変わってきたことを示している。そのあいだに「私」は「1」と「2」のあいだで揺れ動きながら「私/公」の二分法を超え、ネット上の至るところにさまざまな濃淡で存在するようなった「私」を利用して、あたらしい「私」をつくるという意識が生まれた。そして、あたらしい「私」をつくる意識の広がりとともに、「リブログ」というネット上に拡散する自分ではない「私」を経由して、「私」をつくると同時に「私」がつくられるツールが注目されはじめたのである。

ネットがインフラとなっている今、このあらたな「私」はネットに留まることなく、すでに現実に浸透しているだろう。そのひとつの例が、小説家の平野啓一郎が提案する「個人」という単位をさらに分割した「分人」という概念であろう。平野が「一人の人間は、複数の分人のネットワークであり、そこには「本当の自分」という中心はない」[*13]と書くように、リアルもウェブも関係なく「私」はネットワーク状に拡がる存在となっている。しかし、現時点において、この「私」の可能性が十分に引き出されているとは考えられない。だからこそ、私たちは至るところに拡散している「私」から、あたらしい「私」をつくっていかなければならないのである。

【参考URL・文献】
[*1]https://twitter.com/ICCkintaro(2012.10.29アクセス)

[*2]「[インターネット アート これから]――ポスト・インターネットのリアリティ」展、NTTインターコミュニケーション・センター [ICC](2012年1月28日-3月18日)、アーティスト・トーク DJぷりぷり=金太郎+ライヴ、http://hive.ntticc.or.jp/contents/artist_talk/20120317(2012.10.29アクセス)

[*3]https://twitter.com/wooooorld/status/173350930442498048

[*4]渡邉大輔〈イメージの進行形――映像環境はどこに向かうか(2)〉「Twitterの「ポジティヴィテ」(PDF 2011.1.21 UP), p.8 Wasebun on Web, http://www.bungaku.net/wasebun/read/pdf/watanabe_daisuke02.pdf(2012.10.29アクセス)

[*5]http://okikata.org/study/test66/(2012.10.29アクセス)

[*6]ウェブ企画 インターネット・リアリティ研究会 座談会「インターネット・リアリティとは?」、NTTインターコミュニケーション・センター [ICC]、
http://www.ntticc.or.jp/Exhibition/2012/Internet_Reality/document1_j.html(2012.10.29アクセス)

[*7]http://www.damianoyurkiewich.com/nightless/movie.html(2012.10.29アクセス)

[*8]http://www.damianoyurkiewich.com/nightless/text.html(2012.10.29アクセス)

[*9]ディヴィッド・カープ「人はなぜTumblrにハマるのか?」『VOUGE HOMMES JAPAN』, A/W 2012-13 VOL9, p.104

[*10]http://stadiumnyc.com/(2012.10.29アクセス)

[*11]http://www.parkerito.com/ecstasy.html(2012.10.29アクセス)

[*12]Courtney Malick, Interview with Parker Ito, Dis Magazine, http://dismagazine.com/blog/36943/interview-with-parker-ito/(2012.10.29アクセス)

[*13]平野啓一郎『私とは何か──「個人」から「分人」へ』講談社、2012、p.5