「カラーズ」を考える

北澤ひろみ
恵比寿映像祭は、毎回「映像とは何か」という問いに対して、その答えをひとつずつ出していくことを継承してきました。今回、この問いに対して「映像を通して視覚体験として世界は共有できないか」というひとつの視点を私は打ち出したいと思います。具体的には、現代世界を見つめたとき、多様な文化・政治的状況があります。その世界を象徴的に示すキーワードとして、「トゥルー・カラーズ」を設定しました。ただそれを、映像表現を受け取る観客の視点だけではなく、表現者が表現をして人に伝えていく「映像というメディア」が果たす役割、特性から考えたい。そのために毛利さんには「研究者」として、分藤さんには「研究者」でありかつ「表現者」として、下道さんには「表現者」としての立場からの話をしていただければと思います。
北澤ひろみ
毛利嘉孝
まず、今回の「トゥルー・カラーズ」というテーマを聞いて面白いと思ったのは、あらためて色を主題として考えるという点ですね。今でもモノクロで写真を撮っている人はたくさんいます。モノクロは記憶や過去など、時間的なものを表すのに適しています。モノクロの写真を見るとわれわれは、現代の写真でもどこか懐かしさを感じる。写真はその初期から、ありとあらゆるものを過去に封じ込めていくという機能を有していました。
 でも、その一方で今では多くの人はカラーで写真を撮っている。今のデジタル技術だと肉眼で見える以上の色が撮れてしまう。デジタル技術で解像度が上がったということに加えて、世界中でありとあらゆる人がケータイのカメラなどで映像を撮っており、一人では見切れないくらいの無限の写真が撮られ続けている。現代とは、私たちが目で見えている以上のものが常に記録されていくような時代なのです。自分の目だろうが他人の目だろうが次々と映像や画像が撮られて、その一部が、ソーシャルメディア、YouTubeやUstreamに上げられていて見ることができる。そういう過剰な「目」を手にした私たちは、どのように社会を理解しているのでしょうか。
毛利嘉孝
下道基行
僕は2001年にスタートしたシリーズ《戦争のかたち》(2001–2005)を、最初モノクロで撮り始めて途中でカラーに変えたんです。モノクロの写真は、過去を表すという以上に、見る人に別の色を感じさせる余地があります。だからモノクロは長い時間を超えることが可能だと思うんです。カラーの写真はその時代や瞬間を掴んでしまうので、むしろ古くなるのが早い。ただ、植物の緑や風景の違い、いろんな色が映り込むカラー写真はさまざまな現状を集めるのに合っていた。
 あと、2000年くらいに写真を始めた頃はあまり言われなかったのですが、《戦争のかたち》のシリーズが完成する2005年くらいになるとかなりデジタル化も進んだせいか、すごい風景を撮ると「これって合成ですか?」と聞かれるようになったんです。それまでは、写っているものはある程度、真実=ノンフィクションとして見てもらえていたのが、2000 年以後どんどん、フィクションの可能性が意識されてきた。

毛利
確かに今回出展している下道さんの《torii》(2006 –2012)は、「ほんとにこれあるのかな」と思う感じがある(笑)。僕はお二人の作品を見て、色がきれいだなと思ったんです。たぶん分藤さんの《cassette tape》(2013)も、実際にあの場所での色はあんなに鮮やかではなかったのではないかと。

分藤大翼
現地を知っている研究者仲間にもよく言われます。「こんな光景ではないはずだ」と(笑)。ある光景を肉眼で見るのと、撮影されたものとして見るのは異質な体験なので、言われることは分かるのですが、僕は現場で見て撮影しているので、「でもまあ、そんな光景だったんです」と言い返すことになります。
 さっきの下道さんの話を聞いて「なるほど」と思ったんですが、僕の場合は撮影を始める上で、モノクロの写真を撮るという選択肢はありませんでした。それはやはり人類学的な記録資料として、現地の人たちの「ありのまま」の生活を撮りたいという思いがあったからです。カラーで見えている光景をモノクロで見せる、動いている人々を静止した姿で見せるというのは、僕にとっては表現性が高すぎること、不自然なことのように思えたのです。また、動画を選択した理由は、現地の人たちが過ごしている時間を記録し伝えたいと思ったからなんです。べたーっと、何をしているでもなく流れる時間。そういう時間は学問的には記述されませんし、テレビ番組などでも取り上げられることはありません。例えばお祭りなどの非日常的な出来事は人類学的にもテレビ番組的にも取材する価値が認められているわけですが、日常的な出来事はほとんど取り上げられません。でも、そこを描かないと、現地の人たちの生活を伝えることはできません。
 ただ近年になって、カラーの動画が見る人を強制する側面が気になってきていて、もっと自由に見てもらった方が伝わるのではないか、もっと見る人の想像力を信用してもいいのではないかという気持ちが高まってきていて、実は写真も撮り始めているんです。
分藤大翼
毛利
音楽や動画と違って、写真は基本的に空間の中に時間を折りたたまないといけない。下道さんの《戦争のかたち》はかなり点数がありますよね。量を見せることによって「時間」を追体験させることにもなる。一方で分藤さんの《cassette tape》は、テレビ的な映像編集に慣れている目にはちょっと長いなと思ったんです。

分藤
いらいらすると(笑)。あの作品は、まさに見る人を強制する作品ですから。でも、あのおじさんは、あの時あのように過ごしていて、あの人たちを理解したい僕は、彼と共に、あのような時間を過ごしていたのです。見る人をそんな時間に付き合わせるのは申し訳ないような気もするのですが、誰もが些細なことに囚われたり放たれたりしながら生きていることを思えば、あのような光景を見過ごすことは、自分の人生のおおかたを蔑ろにすることに繋がるのではないかと思うのです。これまでのフィールドワーク、撮影の中で、僕が「人が生きているというのは、こういうことだよな」と思わされた場面のひとつが、あの作品なのです。

デジタルが関係性を変える

北澤
これまで人類学では、「スクリーニング」というかたちでの発表をされてきたと思います。が、今回、展示の中で「インスタレーション」として発表していただくということに、観客がどういうふうにそれに向き合うのかはとても興味深いです。

分藤
わざわざ映像祭に足を運ぶような人たちの中には、「普段の時間の流れとは違う時間」を感じたいと思って来る方も少なくないのではないでしょうか。また、「見たことのない光景を目にしたい」と思って来る方もいるでしょう。あるいは、「見なれた光景を、違った光景として見てみたい」という方も。下道さんの《torii》や《bridge》という作品は、まさにそのような望みを叶えてくれるものですね。

毛利
人類学では80年代に入ると、伝統的な人類学の批判からポストモダン人類学が起こり、祭りに代表される伝統的な文化を文字によって一方的に記録することだけが研究ではないという考えが広がりますよね。研究対象を文章によって対象化し、固定化することから逃れてしまうような「リアル」な感じ、つまり今回のタイトルを使えば「トゥルー・カラー」を発見するとき、映像や写真の役割はとても大きいと思うんです。文章は記録するのには向いていても、「時間が持つリアル」がうまく伝わらない。
先のポストモダン人類学の隆盛とともに、「文化は誰が書くのか」、つまり「人類学者はどういう権利があって記述をするのか」という論争があり、その問題意識から人類学を再構築しようという動きがあった。そうした前提を踏まえて考えられるデジタル映像が果たした決定的な役割は、やはり被写体と一緒に「その場で見られる」ということですね。フィルムで撮影していたときは、帰って現像しないと何を撮っているのか分からなかった。デジタル映像によって、撮影者と被写体との関係性のつくり方がすごく変わった。
毛利嘉孝
下道
シリーズ《bridge》(2011)で小さな橋のようなものを撮っていると農家のおじさんに聞かれました。なんでうちの敷地を撮っているんだと。でもデジカメの裏のモニターで撮ったものたちを見せると、一発で納得してもらえる。《戦争のかたち》の頃だと、フィルムを抜け、と言われたりもしたんですが。

分藤
調査を始めた頃、僕は主に紙と鉛筆を使って調査をしていました。僕が行っているところは文字のない社会ですから、その頃は、僕が何をしているか分からず、現地の人たちはずいぶん不信感を持っていたと思います。それが、デジタルヴィデオカメラを使うようになってからは、撮っている映像をその場で見せることで、僕がやっていることを理解してもらいやすくなりました。また、調査を一緒に楽しむ雰囲気も生まれました。例えばインタヴューでも、撮影することで、かえって和やかに話が聞けることもあります。デジタル映像には、そのような効果もあるんです。

毛利
本当に映像の社会的な位置がラディカルに変化していますね。これだけ映像が氾濫し、私たちの生活を浸食してしまうと、たぶん100年後は歴史家も社会学者も人類学者も、みんな研究資料として映像を見るんでしょうね。

分藤
でもどんな風に見るんでしょう。探すのも大変でしょうね。ですから、今後は映像をいかに整理して、使いやすいかたちにして残していくか。撮る側の人たちだけではなく、被写体になっている人たちにとっても、また、それ以外の人たちにとっても。アーカイヴィングという課題は近年盛んに議論されていますね。

毛利
映像の時代に図書館や博物館、美術館がどのようにアーカイヴするのかということですよね。下道さんはどういうふうに整理されてますか?

下道
僕の場合は、本にしたり、全部ファイリングしてありますね。